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第32話 安宿の蛾

夜明け前の暗闇の中、私は六年間暮らした旧市街の四畳半アパートを出た。


部屋の壁際は、すでに綺麗に空になっていた。


明石の家から運び込んでいた二十束の疎開書類は、昨夜の暗がりの中、四束ずつ風呂敷に包んで五度往復し、運河沿いの紙屋の二階へとすべて戻してあった。


書類の束を引き渡すと、紙屋の女将は束の数だけを指先で数え、それ以上は何ひとつ余計な詮索をしてこなかった。


私自身が持ち出す荷物は、驚くほど少なかった。


使い古したひとつの肩掛け鞄の中に、すべての私物が収まってしまった。


手記の帳面と、鉛筆と、刃を研いだ削り用の小刀。


必要最小限の着替えが二組。


永田さんから押しつけられた分厚い封筒。


砂川さんが新聞紙に包んでくれた自家製の梅干し。


そして、昨夜、黄詩文が渡してくれた、あの二本の蝋引きの靴紐。


関口さんが紙切れに殴り書きしてくれた宿の場所書きは、作業着の内ポケットに大切に仕舞い込んだ。


六年間暮らしたこの部屋から減ったものは、たったそれだけだった。


卓袱台(ちゃぶだい)の四本の丸い脚が乗っていた場所だけ、畳の緑色が濃く残っていた。


今月分の家賃は、すでに大家の老婦人に前払いで手渡してある。


退去の挨拶は、誰にもしなかった。


この港湾の吹き溜まりの界隈では、社会から消える人間は、夜の間に音もなく消え去るのが暗黙の掟だ。


わざわざ大家に別れの挨拶を残すのは、いつかこの街へ戻ってくる予定のある、まっとうな人間だけの作法なのだ。


私は卓袱台の天板の上を、右の手のひらで一度だけ優しく撫でた。


埃はひと粒もついていなかった。


昨夜、雑巾で綺麗に拭き上げておいたからだ。


二度と戻らない部屋の机を、なぜ立ち去る前夜に念入りに拭き清めてしまったのか、その理由は自分でもよく分からなかった。


アパートの鍵は、一階の集合郵便受けの隙間から、奥へとチャリンと落とし込んだ。


金属の硬い音が、冷え切った暗い廊下に短く鳴り響いた。



   ◆◆◆



指定された隠れ宿は、関口さんのメモに書かれていたとおりの場所に佇んでいた。


運河の最下流、廃船が何隻も繋留されたまま錆びついている外れの船着き場。


辿り着いた頃には、東の空から冷たい朝日が昇り始めていた。


一階は潰れかけた古い焼き鳥屋で、換気扇の隙間から、燻製のような木炭の匂いが漂っていた。


昨夜の営業の炭火が、いまなお灰の底深くで静かに生きている匂いだ。


帳場に座っていた白髪の店主は、私の顔を見ようともしなかった。


前払いの現金を指先で数え、無言で真鍮の部屋鍵をカウンター越しに寄越した。


私の名前も、身元も、一切訊かれなかった。


宿泊客の素性を何も訊かないことこそが、この無法の宿の唯一の看板商品なのだ。


「……風呂の湯は、夕方の六時からだ」


店主はそれだけをボソリと言い捨てた。


「それより前の時間は、蛇口を捻っても水しか出んぞ」


あてがわれた二階の部屋は、四畳半の粗末な板畳だった。


擦り切れたゴザの隙間から隙間風が吹き込み、窓の外には黒く濁った運河の水面が広がっていた。


窓枠のサッシは、建物の重みで框(かまち)がひどく歪んでおり、下から三分の一ほどの高さまでしか上に持ち上がらなかった。


だが、部屋の中の空気は、廊下よりも二度ほどほんのりと暖かかった。


一階の焼き鳥屋の焼き台の炭の熱が、天井裏の太い木製の梁を伝って、床下から静かに上がってきていたのだ。


畳の上に手をつくと、木炭の微かな温もりが、私の掌の皮膚にじんわりと伝わってきた。


土壁の低い位置に、過去にこの部屋に潜伏していた何者かが鉛筆で殴り書きした、無数の数字が残されていた。


日付と、支払った金額の足し算。


警察や保安省の目を盗みながら、この部屋の壁で宿賃の残高勘定を必死に計算していた誰かの逃亡の痕跡だった。


廊下の突き当たりにある共同の水場へ向かい、蛇口を固く捻った。


配管の奥でゴボゴボと錆びた水が動く重い音がして、やがて濁りのない冷水が勢いよく流れ出した。


朝六時前の水は、骨の髄まで凍りつくように冷たかった。


両手で水をすくって顔を洗い、作業着の袖口で乱暴に水滴を拭った。


手拭いは鞄の底に入っている。


出すのが億劫だったからではない。


私自身が、まだこの逃走の宿で、自分の荷を解いて落ち着く覚悟を決めきれていなかったのだ。



   ◆◆◆



正午を過ぎた頃、階段をギシギシと踏みしめながら明石がやって来た。


男の手荷物は、肩掛けの革鞄がひとつと、抱え込まれた平たい金属製の角缶がひとつだけだった。


その金属缶は、菓子の缶よりもずっと浅く、蓋の縁が赤茶色に錆びついていた。


四つの角はすべて丸く潰れ、塗装が剥げ落ちて銀色の地金が露出している。


何年ものあいだ、過酷な逃走の道中で肌身離さず持ち歩かれてきた道具の形だった。


「……明石さん、荷物はそれだけですか」


「持ち出したのは、手書きの写筆ノートと、解析用の小型端末。……それから、この缶だ」


明石は抱えていた金属缶を、畳の上にコトリと置いた。


中身がみっしりと詰まっているような、鈍く重い音がした。


「丘の上の家を埋め尽くしていた政変前後の紙の地層から、命がけで持って脱出する価値があったのは……この俺の手で書き写した肉筆のノートだけだったよ」


「……」


「カメラで撮影したデジタルの画像データは、街の電子網に接続された瞬間に、向こうのアルゴリズムによって一瞬で遠隔消去される。だが、この紙に刻まれた俺の生身の筆圧だけは、国家のどんな機械を使っても絶対に消せはしない」


明石は自嘲気味に口元を歪めた。


「学会を追放されてからのこの五年間、狂ったように紙を集め続けて……最後に手元に残ったのが、自分自身の肉筆の文字だけだったとはな。とんだ皮肉な結末だよ」


明石は窓際の歪んだ卓の上に端末を置き、電源を入れて通信ステータスをチェックした。


どんな過酷な現場に身を置こうとも、この男が真っ先に取る行動パターンは常に同じだった。


「大気中のスマートダストの散布濃度は極めて薄いが、完全なゼロではないな。この安宿は、築年数が中途半端に新しい」


「……」


「電磁的な完全隔離は不可能だ。まあ、数日間の潜伏くらいなら問題なく持つだろうがな。……もっとも、こんな吹き溜まりに長居する気は毛頭ないがね」



   ◆◆◆



夕暮れ時、私は三分の一だけ持ち上がった窓の前に一人で立った。


隙間から吹き込む風に乗って、運河の潮と、船の重油と、一階の木炭の煙の匂いが、順番に鼻腔を満たしていった。


運河の対岸に、夕日に染まる超管理地区の高層ビル群が、巨大な壁のように聳え立っていた。


ビル群の壁面を覆う巨大なスマート広告膜は、角膜端子(アイリス)のインプラントを持たない私の生身の網膜には、ただの均質な灰色の壁にしか映らない。


その灰色の壁面の前を、継ぎ目のない滑らかな繭(まゆ)の形をした無人車輌の群れが、モーター音ひとつ立てずに滑らかに流れていく。


一台の独立した車輌として走っているのではない。


街全体の分散知能の合意のもとで、ひとつの巨大な知能の血流の粒子として、整然と統率されて動いているのだ。


一昨日の夜まで、私にとってあの光景は、ただの冷たい風景にすぎなかった。


人間ではないと烙印を押され、私という存在を完全に締め出し続ける、遠い社会の無機質な背景だった。


だが、いまは違う。


あの広告膜を制御している超並列の演算プログラム。


あの車輌の隊列をミリ秒単位で制御している合意アルゴリズム。


あの高齢者居住区の老人たちの耳の奥で、「ダイちゃん」と優しく囁きかけている合成音声。


——もし、あの紙屋の書類が指し示していた真実が本物なのだとすれば。


あの街を動かしているすべての機械は、〈思兼〉の血を引く子どもたちなのだ。


そしてその思兼の思考の種は、二十四年前、一歳だった私自身の脳神経から採取されたものなのだ。


(——私は、あの街のすべての知能と、誰よりも深い血縁を持っている)


(そしてその知能のすべてから、出来損ないのゴミとして、この吹き溜まりへと締め出されているのだ)


窓の隙間から、一匹の灰色の蛾が、音もなく部屋の中へと滑り込んできた。


だがその虫は、夕日の残る明るい窓のほうへは決して飛ぼうとしなかった。


部屋の暗い隅の、壁のコンセントへ向けて一直線に飛んでいく。


壁の中を走る配線から、微弱な電磁波が漏れ出ているのだろう。


蛾は光を求めるのではなく、壁の電波の渦を求めて、コンセントの周囲を狂ったように旋回していた。


蛾の羽が土壁に激しく打ち付けられる乾いた音が響いた。


指の腹で紙の端を鋭く弾いたときと、まったく同じ硬い音だった。


コンセントのプラスチックの縁に、羽から削れ落ちた灰色の鱗粉が、薄く白く降り積もっていた。


港の夜の作業場にも、まったく同じ狂った蛾の群れがいる。


この街に生きる虫たちは、もう夜空の月を見上げて飛ぶことを、完全に忘れてしまったのだ。



   ◆◆◆



私は机の前に座り、手記の帳面を開いた。


鉛筆を取り出し、指先の中で三回、くるくると回した。



〈引き潮の朝に考え抜いたことの、その先だけを帳面に書き記す。

もし、あの二〇二七年の書類に記されていた「日向」という苗字が、私自身の本当の苗字でもあるのだとすれば。

日向澪という女性科学者を逮捕し、その研究室を解体した側の執行責任者として署名した「日向律」という男は、私の新しい名前を紙の上に書き記した男でもある。


二人は、まったく同じ苗字を持っている。

書類に私の名前を書き記したあと、その男は国家のあらゆる紙の上から完全に姿を消した。

その男がいまどこへ行き、生きているのか死んでいるのかを、あの六枚の紙は教えてくれない。

何も教えられないまま、私は今夜も、その冷酷な男が書いた文字の骨格をなぞりながら、自分自身の名前を書き記している。〉



手記を書き終え、私は鉛筆を帳面の背表紙の隙間にスッと挟み込んだ。


一階の焼き鳥屋から、香ばしい煙と一緒に、酒に酔った老労働者たちの下品な笑い声が上がってきた。


生身の人間の、泥臭い肉声だった。


機械が生成する滑らかな合成音声では決してあり得ない、歪で、温かい笑い声。


笑い声の途中で息が苦しそうに途切れ、激しい咳き込みへと変わっていく。


この運河の最底辺の吹き溜まりには、まだ、自らの生身の声で笑い、そして喉を詰まらせて咳き込む本物の人間たちが生き残っているのだ。


背後で、明石がパタンとノート端末の画面を閉じた。


乾いたプラスチックの衝突音に、私はゆっくりと振り返った。


明石は自らの膝の上で両手を固く組み、薄暗い部屋の中で、長いあいだ無言で考え込んでいた。


左手の薬指の爪が、右手の手首の皮膚を、ギリギリと二度強く掻きむしった。


血が滲むほどではないが、何年間も繰り返されてきた深い癖のせいで、その部分の皮膚だけが赤黒く変色していた。


やがて明石は顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えて言った。



「……話すよ、物部。もう君に対して、過去のすべてを隠しておく理由はなくなった」

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