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第31話 三歩


アパートの前の薄暗い路地で、黄詩文がコンクリートの塀に背をもたれさせて立っていた。


いつもの、正確な距離だった。


お互いの肉声ははっきりと届くが、伸ばした手は決して触れ合うことのない、三歩の間合い。


「……話、聞いたわ」


詩文が前を向いたまま、静かに言った。


「この界隈の安アパートは、どこも壁が薄いからね」


「……ええ。この街の壁は、いつだって薄いです」


「明日の朝、発つのね?」


「はい。早朝に出ます」


詩文は塀からゆっくりと背中を離した。


私の顔を直接見ることはせず、私の足元のアスファルトをじっと見つめた。


「……靴の踵、外側がひどく削れているわね」


「……この作業靴しか持っていないんです」


「山道を何十キロも歩くための靴じゃないわ」


詩文は少しのあいだ黙り込み、それから自分の上着のポケットに右手を深く差し入れた。


取り出されたのは、一本の細い麻紐の束だった。


丁寧に撚り合わされた靴紐が二本、輪にして束ねてある。


新品のピカピカしたものではなかった。


だが、端の一箇所たりともほつれていない、手入れの行き届いた道具だった。


表面に、上質な蝋(ろう)が薄く塗り込まれていた。


指先で軽くしごくと、蝋の油分でわずかに滑らかに滑り、独特の乾いた匂いが指の腹へと移ってきた。


「……過酷な逃走の道中で靴紐が切れるとね、人間はそれだけで一歩も歩けなくなるのよ」


詩文が低く語った。


「靴底のゴムが擦り切れて破れても、足を引きずって歩くことはできる。でも、紐がブツリと切れてしまえば、靴は脱げ落ちて、人間は絶対に前に進めなくなるの」


「……」


「わたしの生まれた国では——」


言いかけて、彼女は自ら首を振り、言葉を言い直した。


「ううん、わたしみたいに海を密航して国境を渡ってきた人間なら……誰だって骨身にしみて知っていることよ」


詩文は私の目の前で、ストンとしゃがみ込んだ。


三歩の距離を隔てた向こう側で、自らの履いている長靴の紐をスルスルと解いてみせた。


「……よく見ていて」


彼女の細い指先が、流れるように動いた。


紐の端で小さな輪をひとつ作り、その輪の空洞の中を、もう一方の端が二度、くるりとくぐり抜けた。


私がこれまでの人生で知っていた、普通の一重の蝶結びではなかった。


「二回、くぐらせるのよ。一回だけの結び目だと、泥道や山道を全速力で走ったときに、振動で簡単にすっぽ抜けるから」


私もその場にしゃがみ込み、自らの作業靴の上で同じ動作を真似てみた。


だが、一度目は力加減が分からず、作った輪が無残に潰れてしまった。


「そこ、紐を引きすぎよ」


詩文は手を出して私の結び目を奪おうとはしなかった。


三歩離れた場所から、声のトーンだけで的確に指の位置を直してくれた。


三歩の距離を挟んで、夜の路地で二人してしゃがみ込み、黙々と靴紐を結び合っていた。


立ち上がると、詩文は予備の蝋引きの紐を持った右手を、二人の距離の真ん中へ向けてスッと伸ばした。


私も、右手を伸ばした。


お互いの指先は、決して触れ合わなかった。


宙に差し出された二本の手のあいだを、一本の靴紐だけが、静かに渡っていった。



   ◆◆◆



日が完全に落ち、路地に漂う空気の匂いが変わっていった。


昼間のあいだは、港湾の重油と埃の乾いた匂いが立ち込めている。


だが夕暮れが過ぎると、運河の底から立ち上る冷たい水の匂いが、街全体を支配し始める。


路地の中ほどに、古い氷屋の作業場がある。


夜のあいだに大きな氷柱を切り出し、翌朝の魚市場へ出荷するための店だ。


奥の暗がりから、大型の鋸(のこぎり)で巨大な氷を挽くキリキリという高い摩擦音が響いていた。


木材の板を挽く音よりも、ずっと澄んでいて、金属のように甲高い音だった。


切り口から溶け出した冷たい水が、路地のアスファルトの真ん中に一本の細い光る筋を作っていた。


その水の筋を、私と詩文は並んで跨ぎ越した。


跨ぎ越す一瞬だけ、二人の足首の周りを、ひんやりとした氷の冷気が吹き抜けていった。


運河沿いの木製フェンスへ向けて、二人で並んで歩いた。


並んで歩くといっても、二人の肩のあいだには、常に正確な歩幅ひとつぶんの隙間が保たれていた。


詩文の歩調は、私よりもいつも少しだけ速い。


速いのに、彼女は決して私を置き去りにせず、常に私の半歩隣に寄り添っていた。


「……香港にいた頃ね、わたし、文芸誌の編集部で働いていたのよ」


前方の暗い運河を見つめたまま、詩文がぽつりと口を開いた。


「人の書いた何万行もの原稿を、朝から晩まで一日中読む……校正の仕事」


「……そのお仕事は、なくなってしまったんですか」


「統治機構の知能機械のほうが、人間より何万倍も速く、圧倒的に安く、そして一文字も誤植を見逃さないからね」


「……」


「まあ、どこにでもある、ありふれた時代の話よ」


詩文は運河の木製フェンスに両手を置き、暗い水面を見つめた。


引き潮の運河の水位は低く、波の音は遠く深く沈んでいた。


「でもね……国家の機械が読んでいたのは、その文章が文法的に正しいか、間違っているかという記号の配列だけだったわ」


「……詩文さんは、何を読んでいたんですか」


「——息(いき)よ」


詩文はフェンスの木肌の上で、自らの指先を滑らせた。


原稿用紙の上の文字の並びを、指で一行ずつ辿るときの美しい所作。


木肌からわずか数ミリだけ指を浮かせて、直接触れることなく、空中で文字を追っている。


「人間の書く文章にはね、必ずその人の生身の『息』が宿っているのよ」


「……」


「焦って書いた文字は、息がひどく浅くなる。迷いながら書いた文字は、文の途中で息が止まっているの」


詩文は指先を止め、ふっと微笑んだ。


「あなたの検数伝票の署名を初めて見たときのこと、覚えている?」


「……『この字、面白い』って、あなたが言いましたね」


「ふふ、ちゃんと覚えていたのね」


「十六年間生きてきて、初めてのことだったんです」


「何が?」


「僕の書いた文章が、国家の機械による陽性判定以外の……生身の人間の目線で読まれたのが、あのときが生まれて初めてだったんです」


詩文の指が、ピタリと止まった。


「あの署名はね、本当に不思議な、変な文字だったわ」


「……」


「港の過酷な検数の現場の署名なんて、みんな雑に崩れるものよ。朝から晩まで、何十回、何百回とノルマに追われて書き殴るんだから」


詩文の声が、夜の風に溶けていった。


「でも、あなたの書く文字はね……一画たりとも崩れていなかったのよ」


「……」


「まるで、誰か遠い場所の人間にじっと見つめられながら書いているような……張り詰めた文字だったわ。現場の誰も、あなたの文字なんて見ていなかったのにね」


「……幼い頃に、誰かに習った筆跡なんだと思います」


「誰に?」


「……分かりません」


詩文はゆっくりと首を巡らせ、私をじっと見つめてきた。


文芸誌の原稿の最深部を、息を詰めて査読するときの、あの研ぎ澄まされた校正者の目つきだった。


「……訊かないわ」


詩文が静かに言った。


「その秘密の理由は訊かないけれど……いま、あなたの息が、わずかに浅くなったわよ」


そう言ってから、彼女は小さく悪戯っぽく笑った。


彼女の左の白い頬にだけ、小さくて愛らしい笑窪(えくぼ)がポツンと浮かび上がった。



   ◆◆◆



詩文は作業着の内ポケットから、紙パックのお茶を取り出した。


半分ほど残っていた冷たい緑茶を、二口で静かに飲み干した。


飲み終えた空のパックを、今夜の彼女は小さく四角く畳もうとはしなかった。


いつもなら几帳面に三つに折り、手のひらで平らに押し潰すはずの紙パックを、そのまま無造作に作業着のポケットへと押し込んだ。


「……詩文さん」


私が彼女の名前を呼ぶと、彼女は水面から顔を上げた。


「もし、僕が無事にこの街へ帰ってきたら——」


「……約束は、絶対にしないわ」


詩文の声から、いつもの語尾の跳ねるような軽快さが完全に消え失せていた。


「わたしはね、とっくに国家の在留期限の切れた、不法滞在の人間なのよ」


「……」


「明日の朝、わたしがこの港の現場に立っていられるかどうかすら、自分でも分からないの」


詩文は自分自身の感情を必死に押し殺すように、淡々と言葉を紡いだ。


「明日ここに残っているかどうかも分からない人間との約束なんて……これから遠い山を越えて逃げるあなたの、重い荷物になるだけよ」


「……」


「山道を一人で歩くなら、荷物はひとつでも軽いほうがいいに決まっているわ」


「それは——」


反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。


彼女の言っていることは、あまりにも冷酷に正しかったからだ。


自分自身の胸を引き裂くような痛みを隠すための、残酷な「正しさ」の仮面を被っていたが、それでも紛れもなく正論だった。


彼女の左の頬から、あの愛らしい笑窪は完全に消え去っていた。


私は木製フェンスの、彼女の手からちょうど三歩ぶん離れた場所に、自らの両手を置いた。


古い木肌は、昼間の太陽の熱を、微かに、名残惜しそうに残していた。


「……ひとつだけ、訊いてもいいですか」


「何かしら」


「あの帳面は、肌身離さず持っていくんでしょう?」


「……はい。すべて持って出ます」


「なら、いいわ」


詩文がフェンスから手を離した。


二人のあいだの三歩の距離が、スッと縮まり、二歩になった。


清潔な石鹸の香りが、夜風に乗って私の鼻腔をくすぐった。


この甘い香りを彼女の作業着から嗅ぎ取ることができるのは、一日じゅうの労働を終えた、夕暮れのこの時間帯だけだった。


朝の一番は、重油と潮風の匂いのほうが勝ってしまうからだ。


「……書き続けてね」


詩文が私の顔を間近で見つめて言った。


「あなたが世界のどこへ逃げていこうと。……この国の誰も、あなたの言葉を読もうとしなくても」


彼女の瞳の奥で、強い光が揺れていた。


「あなたがその目で見たことのすべてを、その手で書き連ねて……そして、必ず生きて全部持って帰ってきなさい」



「——あなたの書いたものを読むのは、世界中で、わたしの仕事なんだから」



   ◆◆◆



詩文はくるりと踵を返した。


二人の距離が、三歩になり、四歩になり、五歩へと遠ざかっていった。


だが、五歩離れた暗闇の中で、彼女の足がピタリと止まった。


そして——彼女は突如として振り返り、大股で私の方へと戻ってきた。


「……結び目」


彼女がその言葉を言い終わるよりも早く、その身体は私の足元のアスファルトの上へと、ストンとしなやかにしゃがみ込んでいた。


私の右足の、わずか数センチの目の前で。


二人のあいだを隔てていた三歩の距離が、完全に消滅した。


「……さっきの結び方、紐を強く引きすぎているわよ」


詩文の細い指先が、私の靴紐へと直接かけられた。


彼女は私が結んだばかりの結び目を器用に解き、自らの指で素早く輪を作り、その中を二度くぐらせた。


結び目をギュッと締め上げる瞬間だけ、彼女の細い手首から指先にかけて、確かな強い力が入った。


彼女の長い三つ編みの毛先が、私の右の手の甲の皮膚をファサリと優しく掠め、そして離れていった。


彼女の指の背が、私の作業着の裾から覗く右の踝(くるぶし)の硬い骨に、コトリと直接触れた。


私の指先は、氷屋の冷気で冷え切っていた。


だが、私の踝に触れた彼女の指先は、驚くほど温かかった。


しゃがみ込んだ彼女の三つ編みの根元から、白く滑らかな首筋の皮膚が、暗闇の中で生々しく露出していた。


作業着の襟元が、前屈みになったことでわずかに浮き上がり、服の内側の温かい体温の匂いが、私の胸元へと直接立ち上ってきた。


私の喉が鳴り、息を吸い込む音が、静寂の路地に小さく響いた。


私は右手を開き、そして強く握りしめた。


親指の腹で、中指のペンだこの硬い位置を、必死に確かめた。


私の目は、無意識に自らの靴の鳩目(はとめ)の数を、片足で七つ、狂ったように数え上げていた。


頭の中で数を数えても、その数字を吐き出す相手など、この世界のどこにもいないというのに。


結び目をひとつ直すだけの、ほんの数秒間の時間。


港で何百個ものコンテナの数を数える時間よりも、途方もなく長く、息が詰まるほど濃密な時間だった。


詩文がスッと立ち上がった。


顔と顔が触れ合うほどの、圧倒的な至近距離だった。


彼女が後ろへ一歩下がるまでに、丸々一拍の、重い沈黙があった。


それから彼女は、ゆっくりと後ろへ歩き、再び正確な三歩の間合いを作り直した。


「……明日の朝からね」


「はい」


「三日に一度、必ず靴紐を解いて結び直しなさい」


「……」


「結び目を締めたままにしておくと、その部分の繊維だけが伸びて、切れやすくなるから」


「……分かりました。そうします」


詩文の唇から、小さく、滑らかな一言が漏れた。


広東語の、短い呟きだった。


その言葉がどんな意味を持つのか、私には分からない。


詩文は意味を日本語に訳すこともせず、そのまま背中を向けた。


運河沿いの旅館街へ向けて歩き去っていく彼女の細い背中を、路地の角が隠してしまうまで、私は瞬きもせずに見つめ続けた。


彼女は最後まで、一度たりとも振り返らなかった。


決して振り返らないということだけに、全身のありったけの力を使って歩いているような、痛切な背中だった。



   ◆◆◆



私はその場に、一人でしゃがみ込んだ。


彼女が結んでくれた右足の結び目に、そっと指をかけた。


一度、激しく迷った。


そして、その結び目を、自分の指先で静かに解いた。


自分の手で、もう一度小さな輪をひとつ作った。


その輪の空洞の中を、もう一方の端を二度、慎重にくぐらせた。


一度目は、結び目が緩んでほどけてしまった。


そして二度目に、彼女が教えてくれたとおりの、完璧に強固な結び目が完成した。


私は右の掌を、その結び目の上にそっと重ねて置いた。


私の掌の体温が、紐に塗り込まれた冷たい蝋の油分へと、じわじわと吸い取られていった。


今夜のこの出来事は、私の手記の帳面には、一行も書き記さない。


私にはまだ、この魂の疼きを表現するための言葉の書き方を、何ひとつ知らないからだ。


私は立ち上がり、先ほどまで彼女が立っていた、あの路地の場所までゆっくりと歩いた。


——きっかり、三歩の距離だった。

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