第30話 引き潮
運河沿いの古紙倉庫の重い鉄扉は、外開きだった。
軋む取っ手を力強く押し開けると、朝の潮の匂いを孕んだ冷たい大気が、一度に肺の奥へと流れ込んできた。
運河は、引き潮だった。
東京湾の海水が引き、黒く濡れた石垣の地層が、水面の上に露わに晒されていた。
濡れて黒光りしている石の帯と、朝日に乾いて白んでいる石の帯。
その二つの境界線を刻む一本の水平線を、私は以前にもこの目で見たことがあった。
まったく同じ石垣の、ほとんど寸分違わぬ同一の高さで。
あのときは、これから真実を求めて二階の暗黒の書庫へ上がっていく直前だった。
そしていま、私は世界の恐るべき秘密のすべてを知って、この階段を降りてきたのだ。
石垣の冷たい縁に、両手をついた。
夜の闇の中で冷え切った花崗岩が、私の掌の体温をじわじわと吸い取っていった。
手に入れた六枚の書類の重みが、まだ私の胸のどこにも収まりきらずに燻っていた。
五枚目の、あの保護措置記録。
【旧姓名】の記入欄を塗り潰していた、あの真っ黒な長方形。
水で湿らせ、鉄筆の凹みを完全に消し去り、その上から墨を二重に塗りたくられた完全な隠蔽。
——もし、あの紙に記されていた一歳の実子が、本当にこの私なのだとしたら。
あの黒い塗り潰しの下にある二文字の苗字は、間違いなく「日向」ではないのか。
たぶん、そうだ。
だが、私の思考は、その「たぶん」という推測の壁の前でピタリと止まる。
あの紙の物理的な記録は、そこで途切れているからだ。
そして消去されていたのは、苗字だけではない。
二十四年前、実の親が私に授けてくれたはずの「本当の名前」が何文字であったのかすら、私には知る由もないのだ。
訊ねれば、すべてが氷解する話だった。
山側の実家にいる養母・物部佐知子に、直接訊けば済むことだった。
つい先日の夜、私は公営端末の短信で、幼い頃の手術の年を訊ねたばかりだ。
返ってきたのは、普段なら三行で終わらせる几帳面な人が、五日間の苦悩の末に書き足した、異例の四行目の言葉だった。
——どうかしたの。
私はその問いに、何も答えなかった。
そして数日後、公営電話の受話器越しに聞いた、養母のあの悲痛な叫び。
——逃げなさい、と。
「僕の元の名前は、一体何だったのですか」
公営端末の三行の空白のうち、たった一行を使えば、その問いを送信することはできる。
送信すれば、養母は必ず正直に答えてくれるはずだ。
だが、その答えを私に返すために、あの人は二十年間誰の手にも触れさせずに封印してきた開けてはならない過去の箱に、自らの手を深く突っ込まねばならないのだ。
だから私は、絶対に訊かない。
石垣の上の舗装道路に、明石が一人で立っていた。
肩掛けの革鞄を足元に下ろし、運河の濁った水面を見つめている。
一晩中、二階の暗闇で紙の繊維に顔を近づけ、目を酷使し続けた男の、赤く充血した目つきだった。
「……明日の朝だ」
明石が振り返らずに言った。
「今日じゅうに、この街での身辺を完全に畳む。君は港際の始末をつけろ。俺はこの家の始末をつける」
「丘の上の家は、どうするんですか」
「もう拠点としては使えん。情報局の鵜飼が持ってきた三通の公文書のうち、一通が強制立入の最終通告だった」
「……」
「一度目の手入れは空振りで終わった。だが、空振りのまま手を引くような甘い国家機関は存在しない。……二度目に奴らがやって来るときは、この丘の上の紙をすべてトラックで物理的に押収しに来る」
明石は水面を見つめたまま、言葉を続けた。
「奴らに読まれる前提でわざと置いていくダミーの紙と、命がけで持って脱出する本当の記録を、今日中に選別する」
「……」
「持ち出すのは、この手で書き写したノートと、最低限の解析端末だけでいい。残りの部屋を埋め尽くす紙は……ただの紙の山として捨て置く」
「紙の山」と口にしたその一瞬だけ、明石の声が半拍遅れ、かすかに震えた。
(——あの足の踏み場もない紙の獣道は、この人が学会を追放されてから積み上げてきた、血と汗の五年間そのものだったはずだ)
私は何も言わず、ただ深く頷いた。
「運河の外れの隠れ宿で合流しよう。昼過ぎになる」
◆◆◆
私はその足で、港の帳場へ向かった。
窓口の奥で、関口さんは私の顔を見るなり、何も理由を訊ねなかった。
手元の勤務台帳をパタンと閉じてから、静かに顔を上げた。
「……身を隠す宿には、もう話をつけたぞ。運河の外れの古い船着き場だ。一階が潰れかけた焼き鳥屋で、二階に貸し部屋が三つある」
「……」
「看板なし。現金前払い。宿泊客の素性や名前は一切訊かん」
老人は三つの特徴だけを簡潔に並べ、それで話を打ち切った。
「関口さん、本当に何から何まで——」
「言うな。同じことを二度も言わせるな。これは貸しなんかじゃねえ」
窓口の外から、見慣れない若い日雇いの男がひょっこりと顔を出した。
関口さんは手元の台帳を開こうともせず、冷徹に言い放った。
「明日の朝番の枠は、もうねえよ」
若い男は舌打ちし、何も言わずに立ち去っていった。
この港の帳場は、私という人間が社会から完全に消え去ろうとも、明日も、明後日も、何事もなかったかのようにこの冷酷な速度で回り続けるのだ。
「……実家の家族からおまえ宛てに緊急の言付けがあったら、わしがこの帳場で直接預かる。おまえのアパートの公営端末の箱は、もう情報局に見張られとるかもしれんからな」
関口さんは耳の後ろの鉛筆をいじりながら言った。
「政変前の古い遺産回線は、都市の外れの白地の境界まで、いまも地下でしぶとく生きとる。銅線という物質は、長持ちするからな。国家がその存在を忘れた僻地ほど、紙と銅線は綺麗に残るもんよ」
私は肩から提げていた鞄を開け、風呂敷に包んだ重い束を取り出した。
十六歳から今日までの八年間、毎晩部屋で書き綴ってきた、私の魂の分身である何冊もの手記の帳面。
「……これを受け取って、預かっていただけますか」
関口さんはその風呂敷包みを両手で受け取り、ズシリと持ち上げた。
重さを手のひらで確かめる手つきだった。
中身が何であるかは、一切訊かなかった。
老人は立ち上がり、金庫の重い鉄の扉を開け、勤務台帳のすぐ隣の最も安全な暗がりの中へ、その包みを静かに納めた。
「……この金庫に、本物の金よりも重いものを仕舞うのは、わしの長い人生でもこれが初めてだ」
それから老人は、机の上の綴り紐を解き、私の過去六年間の出面が記録された勤務票の束を一気に引き抜いた。
土間の片隅に、古い鉄の火鉢が置かれている。
真夏であっても片づけられることのない、灰だけが年じゅうカラカラに乾いている器。
関口さんは私の六年間の勤務票をその灰の上に置き、ポケットからマッチ箱を取り出してシュッと擦った。
細い紙の束は、端からパチパチと鮮やかな橙色の炎を上げ、黒く焦げ、小さく縮みながら灰の中へと崩れ落ちていった。
「二十年前の政変の混乱のとき、わしは国家の命令で、人間を消すために職安の名簿を燃やした」
燃え盛る小さな炎を見つめながら、老人は静かに呟いた。
「そして今度は……ひとりの生きた人間をこの世に残すために、その記録を燃やしておる。……まったく同じ火なのに、不思議なもんだな」
この国のあらゆる公的な紙の上から、物部昊という労働者の六年間の痕跡が、完全に消滅した。
関口さんの金庫の奥底に預けられた、あの手記の帳面だけが、私の生きてきた唯一の証拠として残された。
◆◆◆
夕方、私は港の守衛所の門の外側に立ち、作業着姿の労働者たちが出てくるのを待った。
門の内側から出てくる仲間たちを、入場証を持たない部外者として外側で待つのは、これが生まれて初めてのことだった。
西日が完全に傾いた頃、永田さんが重い足取りで門から出てきた。
私を見ても、元高校教師の男は少しも驚かなかった。
「……関口さんから、全部聞いたよ」
永田さんは立ち止まり、自らの鞄の真鍮の留め具を、親指でカチカチと二度確かめた。
何か深い考えを巡らせているときの、この人のいつもの癖だった。
「……飯は、もう食ったのか」
「いえ、まだです」
「腹になんでもいいから詰め込め。……逃げる前日に飯を食わんような奴は、逃走の途中の肝心なときにも飯を食わずに野垂れ死ぬぞ」
永田さんは鞄の口を開け、分厚い白い封筒をひとつ取り出した。
「……当面の、帰りの電車賃だ」
「受け取れません。こんな大金——」
「前に現場で言ったはずだぞ。人間が何かから逃げるときに、手元に金がないのが一番惨めで困るんだ、とな」
永田さんは強い口調で遮った。
「自分が口にした言葉には、最後まで大人の責任を持たなきゃならん」
「永田さん……」
「俺への借金にしておけ」
元教師は、その分厚い封筒を、私の作業着の胸元へ無理やり強く押しつけてきた。
「教師という人種はな、教え子に一生消えない貸しを作って、そいつが立派になって返しに来るのを首を長くして待つのが仕事なんだよ。……だから、いつか必ず返しに来い。それだけで十分だ」
私の指先が、封筒の厚みを測った。
数千円の電車賃などという厚みでは到底なかった。
私は中身の札を数えなかった。
いま数えてしまえば、その金額の重さに耐えきれず、突き返してしまうことが分かっていたからだ。
門の脇のフェンスの陰に、無口な老労働者の砂川さんが静かに立っていた。
老人は一言も言葉を発しなかった。
ただ、古い新聞紙で丁寧に包まれた小さな小包を、私の肩掛け鞄の口の上へ、そっと載せてくれた。
包み紙の隙間から、塩と紫蘇で漬け込まれた、自家製の梅干しの酸っぱい匂いがツンと鼻腔をくすぐった。
砂川さんは右手を無造作に一度だけ高く掲げ、振り返ることもなく、夕暮れの埠頭の奥へと真っ直ぐな背中で歩き去っていった。
◆◆◆
旧市街のアパートへと戻る裏路地は、深い夕暮れの茜色に染まっていた。
六年間、毎日飽きるほど歩き慣れた、埃っぽい抜け道。
運河の引き潮の、あの濃密な海の匂いが、路地の奥深くまで吹き込んできていた。
明日の早朝、私はこの六年間暮らした四畳半の部屋から、永遠に姿を消す。
潮が完全に引いたあとに、一体どんな残酷な真実の岩肌が晒されるのかは、まだ誰にも分からない。
角をひとつ曲がった。
私の借りているアパートの玄関へと続く薄暗い路地の先に——見慣れたひとつの人影が、じっと佇んでいた。
私の足が、その人影の三歩手前で、凍りついたようにピタリと止まった。




