第27話 逃げなさい
机の上の鉛筆を置き、私は無言のまま四畳半の部屋を出た。
古い集合住宅の一階。
蛍光灯が寿命で切れた真っ暗な廊下の突き当たりに、公営端末の無骨な鉄の筐体が佇んでいる。
黒い受話器を持ち上げると、受話口の硬いプラスチックが、氷のように冷たかった。
私の人差し指と親指の体温がしばらく一方的に吸い取られ、やがて受話器と私の皮膚が、まったく同じ冷たい温度になった。
テンキーで、物部の実家の固定回線番号を迷わず打ち込んだ。
呼び出し音が受話器の奥で七度鳴り響き、そして回線が繋がった。
「……はい、物部でございます」
養母・物部佐知子の、聞き慣れた穏やかな声だった。
港湾地区の最底辺から、山側の閑静な手習い塾の住宅地まで、地下に埋設された古い銅線と、埃を被った中継交換機を三つ越えて届いてくる肉声。
いくつもの物理的な回路を潜り抜けてくるあいだに、声の高い周波数の艶が削ぎ落とされ、どこか遠い場所から響いてくるように掠れていた。
「……母さん、僕です」
「……昊」
「この前の短信で、急に変な昔の手術のことを訊いて……すみませんでした」
「いいのよ、気にしなくて」
受話器の向こう側から、サーという微細な回線ノイズが、二人の沈黙のあいだに流れ込んでいた。
「母さん」
「なあに」
「もし……知らない役人やスーツを着た人間が、僕のことを尋ねて実家に来たら、何も知らないと答えてください」
「……」
「本当に何も知らないはずですから、ありのままに、昔のことなんて何も分からないと突っぱねてください」
養母は何も答えなかった。
受話器の奥で、カチ、カチと、居間の柱時計の振り子が時を刻む音だけが小さく響いていた。
子どもの声は、何ひとつ聞こえなかった。
昔なら、夕方のこの時間帯は、手習い塾の生徒たちが広間で『論語』や『千字文』を大きな声で競うように音読していたはずだった。
あの賑やかな子どもたちの声が、完全に消え失せていた。
「……あなた、何か恐ろしいことに巻き込まれているのね」
「違います。何でもありません」
「昊」
強い声だった。
それ以上、誤魔化しの言葉を重ねることができなかった。
養母が小さく息を吸い込む気配が、銅線を震わせてダイレクトに伝わってきた。
「私はね、昊。……あなたに、ずっと言えなかったことがあるのよ」
「……何ですか」
「あなたの書く言葉を、信じてあげられなくて、本当にごめんなさい」
養母の声は、震えていなかった。
「その一言がね……二十年間、どうしても喉につっかえて言えなかったの」
回線が一瞬だけ不自然に途切れ、ノイズを伴って再び繋がった。
「その一言が言えなかった本当の理由がね、この前のあなたの短信を受け取って、ようやく分かったのよ」
「……」
「私ね、いまでも……完全に信じ切ることができていないのよ」
私は受話器を握りしめたまま、右手を固く強張らせた。
「私はね、手習い塾で四十年、子どもたちに字を教える仕事をしてきたわ。紙の上に書かれた文字の筆圧と呼吸を見れば、その子がどんな心でそれを書いたのか、全部手に取るように分かるの」
養母は言葉をひとつずつ、噛み締めるように紡ぎ出した。
「あなたの書く文字はね、昊。……十六年間、一度も乱れなかったわ」
「……」
「小学校の作文で、高校の論述で、大学の入試で……あらゆる国家の機械におまえは人間ではないと否定され、周囲の人間から化け物のように目を逸らされ続けても……あなたの筆跡の骨格だけは、ただの一度も乱れなかった」
養母の声の奥に、深い痛恨の響きがあった。
「私はね、あなたのその文字の正しさを、誰よりも知っていたのよ。……知っていたのに、国家の百パーセントという神話の前に、信じることができなかったの」
「……」
「だから、私はあなたに謝らないわ。いま謝ってしまえば、それこそがあなたに対する嘘になってしまうから」
暗闇の廊下に、公営端末の液晶の青白い緑色の光だけが浮いていた。
「でもね、昊」
養母の声が、塾で幼い子どもたちに手本を音読させるときの、あの凛とした速度へと戻った。
一文字一文字を、相手の魂に刻みつけるように。
「——逃げ、なさい」
「……え」
「いまあなたの身に何が起きているのか、私には分からないわ。……分かりたくもありません」
養母は断言した。
「あなたの言葉を完全に信じてあげられなくても……あなたが、私の大切なたった一人の息子であることだけは、十八年間、ただの一度も嘘じゃなかったわ」
「……はい」
「お父さんもね、きっと心の中では同じことを思っているはずよ。あの人は絶対に口には出さないけれど」
「はい……」
「体にだけは、本当に気をつけてね」
無機質な切断音が静かに響いた。
私はゆっくりと受話器をフックに置いた。
受話器の黒いプラスチックの表面に、私の指の汗の跡が白く残っていた。
液晶画面の緑色の光が、その指の跡を照らし出していた。
指の跡は、夜の冷たい空気の中で、数秒のうちに蒸発して消え去った。
十六年間、家族にすら信じてもらえなかった。
だが養母は、私の書く文字が一度も乱れなかったという真実を、知っていたのだ。
知っていながら信じることができず、そして信じ切れない絶望を抱えたまま、逃げろと叫んでくれたのだ。
◆◆◆
翌朝、私は港の帳場へ向かった。
窓口の内側の板壁に、去年の破かれたカレンダーが掛かっている。
一枚もめくられず、去年の十二月の数字のまま放置されている。
「……関口さん。私、消えます」
私は窓口越しに、静かに告げた。
「しばらくの間、この街から身を隠します」
関口さんは驚く素振りすら見せなかった。
耳の後ろの白髪から短くなった鉛筆を取り、机の上にコトリと置いた。
「……順番の問題だな」
「順番、ですか」
「国家の制度によって強制的に消される前に、自分の足で自ら消える。——同じ消えるという結果でも、その意味は天と地ほどに違う」
関口さんは立ち上がり、金庫の重い鉄の扉を開いた。
千円札の束と、帳場の角判と、古い台帳。
老人はその一番奥の隙間から、一冊の薄いノートを引き出した。
黒塗りの表紙に、旧政府の公的な紋章が、色褪せた金箔で重厚に押されている。
背表紙の布クロスが擦り切れ、下の厚いボール紙の芯が覗いていた。
老人はその台帳を両手で開き、一度、自らの鼻先に近づけて深く匂いを嗅いだ。
紙の命の生き死にを、インクとパルプの匂いで見極める、職人の仕草だった。
「……まだ、紙が生きとるな」
開かれたページは、真っ白だった。
一番上の見出しの項目だけが、政変前の古い活字で印刷されている。
【姓名】【生年月日】【本籍地】。
罫線のインクがひどく薄い。
カーボン複写を前提としていない、一枚ものの公的な原本用紙だった。
見出しの下の記入欄が、何十行にもわたって、完全な空白のまま整然と並んでいた。
「旧政府の身元引受・空白台帳だ」
関口さんが言った。
「二十年前の古い公文書でな」
「……」
「いまの統治機構の電子網では、誰もこの古い紙の書式を照合できん」
老人は三つの事実だけを淡々と口にし、それ以上の解説を省いた。
「……関口さん、私にはまだ、帳場からの前借りが八万四千円残っています」
「ああ、台帳に載っとるな」
関口さんは金庫の帳簿を見ようともしなかった。
「その借金は消さん。おまえさんが再びこの港に生きて戻ってくる日まで、あの台帳の行にそのまま載せておくだけだ」
「これは……一体どういうことですか」
「貸しを作ったわけじゃねえ。いつか必ず返しに来い、という約束だ」
老人は金庫の開かれた扉を見つめた。
「二十年前の政変の混乱のとき、わしは上の命令で、職安の名簿を全部焼却炉で燃やした。この手でな」
「……」
「職安に登録されていた、何千人もの生身の労働者の台帳だ。すべて紙だった。全部燃やし尽くすのに、丸三日かかった」
窓口の外を、朝の冷たい潮風が吹き抜けていった。
「三日目の朝、灰だらけの炉の前で思ったよ。わしはこの国の公務員として、規則どおりに正しい仕事をした。誰ひとりとして間違った判断はしていない、とな。……だが、誰ひとり間違っていないのに、現場から人間が綺麗にいなくなった」
関口さんは、金庫の暗がりから目を逸らさなかった。
「何人の命が消えたのかは、もう誰にも分からん。人間を数えるための唯一の名簿を、わし自身が灰にしてしまったんだからな」
老人は、その空白台帳を、窓口のカウンター越しに私の手元へ向けてグッと押し出した。
「あのとき、どうしても燃やすことができずに、わしが一冊だけ隠し持ったのが、この台帳だ。……丸二十年間、金庫の奥に隠し続けてきた」
老人は初めて顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えた。
「二十年前に燃やしてしまった人間たちへの借りを返すのに、丸二十年もかかってしまった。……物部、堪忍してくれ」
老人は紙の切れ端に、鉛筆でひとつの人名と地名を殴り書きして渡してくれた。
都市の境界線の外側、白地の手前にある集落に住む、古い紙職人の知人だという。
「行くなら、明日の朝一番にしろ」
関口さんは鉛筆を耳の後ろに戻した。
「早朝の時間は、街の監視機械も、それを操る人間どもも、まだ半分眠っておるからな」
私は旧政府の空白台帳を、作業着の内ポケットへ深く差し入れた。
帳場を出て、朝の埠頭を歩き出した。
台帳の硬い角が、私の右の脇腹にコツリと当たった。
一歩、足を前に踏み出すたびに、まったく同じ場所に、硬い紙の角が重く当たり続けた。




