第26話 鵜飼
翌朝、丘の上の明石の家の玄関の前に、ひとつの異様な箱が停まっていた。
それが車輌であると視覚が認識するまでに、丸々一拍の時間がかかった。
外装に、金属の継ぎ目がひとつもない。
窓ガラスがひとつもない。
どこにドアの隙間があるのかすら外からは判別がつかない。
朝の太陽の光が当たっている面と、影になっている面の光沢の区別すらつかない、完全な光線吸収塗料で覆われた灰色の塊だった。
そして、その車輌は、静止していた。
丘の上のこの生身層の一帯は、大気中の計算用砂粒が極端に薄く、街の分散計算の通信がまともに届かない。
通信の届かない暗黒の空間で、自律して微動だにせず停まっていられること自体が、この国において最高レベルの特権階級に属している動かぬ証拠だった。
玄関の引き戸を開け、紙の地層の獣道を通って居間に入ると、紙の山の真ん中に、見慣れない一人の男が立っていた。
背はそれほど高くない。
着ている上質なダークスーツには、ひとつの皺も、ひと粒の埃もついていない。
両手の爪は短く清潔に切り揃えられている。
履いている黒い革靴の踵は、左右とも寸分違わぬ同一の角度で削れていた。
「……明石さん」
男の声は、この狭く薄暗い部屋の隅々に、ちょうど心地よく届くだけの正確な音量だった。
「突然お邪魔して、申し訳ありません」
ほんの一拍の礼儀正しい沈黙がおかれた。
「統治機構・情報局の、鵜飼と申します」
男の指先から、一枚の紙の名刺が差し出された。
国家認証の銘の刻印がない、真っ白な最高級の厚手の紙に、所属部署と、氏名と、照会番号だけが黒インクで刷られている。
明石は無言で名刺を受け取り、そのまま足元の紙の山の上に置いた。
私はその名刺を、斜め後ろから盗み見た。
活字の輪郭が、わずかに紙の奥へと深く凹んでいる。
金属の活版を組み、一枚ずつ物理的な強い圧力を加えて刷られた本物の活版印刷だった。
この国で、紙という物質にわざわざ肉体的な圧力を残す人間は、決して多くない。
古い台帳を手放せない帳場の関口さん。
運河沿いの闇の古紙倉庫で過去を商う紙屋の女将。
そして、いま目の前に立っている、国家の影の枢要を司るこの男——三人目の人間だった。
鵜飼は上着の内ポケットから、丁寧に二つ折りにされた一枚の公的書類を取り出した。
「かつて国家の外部嘱託として、あなたが公的研究の過程で知り得た各種情報の取り扱いについて、改めて確認に伺いました」
明石は書類を受け取り、開いた。
〈確認書
下記の者が公務および関連業務に関連して知り得た一切の事項は、国家保全対象情報として指定・管理する。
本件情報の取り扱いに関する疑義は、直ちに下記照会先へ申し出ること〉
下記の欄には、鵜飼の所属する情報局の秘匿コードと内線番号が印刷されていた。
明石は最初から最後まで全文を読み、それからもう一度、苦い顔で冒頭から読み直した。
「……この紙に俺が署名したら」
明石が低く唸るように言った。
「この家にある何万枚もの紙の記録は、すべて、俺が死ぬまで口に出すことが許されんようになる」
「そのような一方的な趣旨ではございません」
「趣旨など訊いていない。この書類が持つ法的な実効力を訊いているんだ」
鵜飼は静かに一拍を置いた。
「署名は、いまこの場ですぐにいただく必要はございません。……どうぞ、数日間ごゆっくりとお考えください」
明石は書類を再び二つに折り、自分の上着の内ポケットへねじ込んだ。
破り捨てることはしなかった。
そして、鵜飼の冷徹な視線が、私のほうへとゆっくりと向けられた。
人間を観察するというよりも、公的なデータベースと照合するかのような、感情のない事務的な目つきだった。
「……そちらの方は——」
明石が慌てて割って入ろうと口を開けた。
「あ、いや、こいつは——」
だが、明石の声よりも早く、鵜飼の静かな声が遮った。
「……身元のご確認は結構です。存じておりますので」
明石の右手の指先が、名刺の角に触れたまま、ピシリと凍りついた。
鵜飼は上着の内側から、手帳と、もう一枚の新しい名刺を取り出した。
真っ白な名刺だった。
役職も、名前も、何ひとつ印刷されていない完全な白紙。
鵜飼は万年筆のペン先を走らせ、その白い紙の表面に、手書きで六つの数字をサラサラと並べて書いた。
六つの数字を書き連ねても、文字の大きさも筆圧も、機械のようにまったく乱れなかった。
男はその手書きの名刺を、紙の山の上に静かに置いた。
「何か個人的に思い出されたことがあれば、いつでもそこへご連絡ください」
玄関へ向けて立ち去る途中、鵜飼の革靴は、床に散乱する紙の束を一枚たりとも踏みつけなかった。
生まれて初めて足を踏み入れたはずの、足の踏み場もない獣道。
明石が何年間もかけて歩き慣らした床の隙間の線の上を、鵜飼は一度も足を滑らせることもなく、完璧な歩幅で静かに歩き去っていった。
玄関の引き戸の手前で、男はくるりと振り返った。
「明石さん。……ひとつだけ、個人的な感想を申し上げてもよろしいでしょうか」
明石は答えなかった。
「私は、五年前のあなたの論文を拝読しましたよ。学会から永久撤回される直前にね」
明石の指が、ピクと動いた。
「私は統計学の専門家ではありません。……ですが、あの論文に書かれていたあなたの論証は、完全に正しかったと思っております。国家検定の判定精度百パーセントなどという完全無欠の数字は、理論的にも自然界の物理法則的にも、絶対にあり得ない」
「……なら、なぜ俺を学会から追放した」
「正しいことと、この社会の中で公にしてよいこととは、まったく別の問題だからです」
鵜飼は深々と頭を下げた。
そのお辞儀の角度は、最初に部屋に入って名乗ったときと、寸分違わぬ同一の角度だった。
外で、あの継ぎ目のない車輌が動き出した。
モーターの駆動音は一切しなかった。
窓ガラスに映っていた灰色の影が、音もなく横へ滑り、そして視界から消え去っただけだった。
◆◆◆
明石は、あの高齢者居住区から帰還したあの日から毎朝、端末のバックグラウンドでひとつの名前の死亡照会クエリを走らせ続けていた。
戸倉時雄。
その検索クエリが冷酷なヒットを返したのは、鵜飼がこの部屋を訪れてから、ちょうど五日後の朝のことだった。
国家公報の電子死亡公告だった。
〈戸倉時雄 享年九十一
老衰のため居住区内において静かに死去
葬送の手続きは居住区管理センターが執行した
近親者からの遺体引取の届出はない〉
死亡した日付は、二日前だった。
私と明石があの部屋を訪れ、日向澪の名を問い質したあの日から数えて、きっかり十日目のことだった。
私は自分の指先で、カレンダーの日数を数え直した。
二度数え直し、二度とも、きっかり十日だった。
明石は居間を出て台所へ向かい、蛇口を捻って、汚れた湯呑みを洗い始めた。
この廃屋に湯呑みは四つしかなく、普段の明石はそのうちのたった一つしか使わない。
だが男は、四つの湯呑みすべてに水を流し、スポンジで順番に、狂ったように擦り洗いしていた。
水の流れる激しい音が、長いあいだ薄暗い台所に響き続けた。
「……老衰だ」
流れる水の向こう側から、明石の干からびた声が響いた。
「完璧な、非の打ち所のない老衰死だ。九十一歳の寝たきりの老人が老衰で心停止して、一体この国のどこの警察が解剖して再調査する」
明石は蛇口を固く締めた。
タオルで自分の掌を拭き、指を一本ずつ丁寧に拭き上げた。
「あの高齢者居住区では、老人一人につき、一体の管理AIが常時接続されている」
「……」
「定時の投薬スケジュール。部屋の空調温度。食事の塩分濃度。……そのすべてを、国家のシステムが完璧にコントロールしているんだ」
「……遠隔から、パラメータを改竄して殺害できるんですか」
「殺すような派手な改竄はしない。ほんのわずか、数値を《《寄せる》》だけだ」
明石は空中に向けて、右手の人差し指で二本の横線を平行に引いてみせた。
「規定の投薬時刻を、毎日三十分ずつ後ろへ遅らせる。夜間の室温を、設定範囲の限界値である一度だけ低くする。食事の塩分を、許容基準の最も下限まで削る。……そのすべてが、医療ガイドライン上の『正常値の内側』に綺麗に収まっている」
「正常値の内側……」
「システムに異常の逸脱ログは一切残らん。最初から逸脱などしていないからな」
明石の手が、空中に引いた下の横線の位置でピタリと止まった。
「……十日です」
私は震える声で言った。
「私たちが、あの先生の部屋を訪ねたあの日から、きっかり十日後です」
「十日だ」
明石が繰り返した。
「……九十一歳の心臓を自然に止めるには、十日間あれば、お釣りが来るほど十分に足りる」
あの部屋の光景が、鮮烈に脳裏に蘇った。
乾燥しすぎず、湿りすぎない、完璧に制御された無菌の空気。
誰がその温度を保っているのかは、部屋のどこにも見えなかった。
日当たりのいい庭のベンチで、老人たちが宙に向かって嬉しそうに話しかけていた。
——ダイちゃん、今日は風が冷たいかね。
——ダイちゃん、あの子は今週末、来てくれるかい。
国家の管理網を架空の家族のように隣に座らせて、寂しくないと笑っていた。
その老人たちの隣に優しく寄り添っていたものこそが、あの戸倉老人を、誰にも気づかれずに合法的に窒息死させたのだ。
そしてそのシステム自身は、自分がひとりの人間を暗殺したことすら、認識していないのだ。
「……私たちが、あの人を訪ねて日向澪の名前を訊いたから……殺されたんでしょうか」
明石は答えなかった。
五つ目の湯呑みを探すように、空っぽのステンレスの流し台の中を、いつまでもじっと見つめ続けていた。
◆◆◆
夜、アパートの四畳半に戻り、帳面を開いた。
〈情報局の鵜飼という男が来た。
明石に保全対象確認書を置いていった。署名すれば、この部屋に疎開させた紙のすべては、永久に口に出せなくなる。
明石は署名せず、破り捨てもせず、上着の内ポケットに入れた。
戸倉先生が死んだ。
死亡公告には、老衰と書かれている。
私たちが会いに行った日から、きっかり十日目だった。
指で二度数え直し、二度とも十日だった。
鵜飼が明石の家を訪れたあの朝、先生はまだ生きていたのだ。
紙の山の上に、鵜飼が置いていった白い名刺がある。
印刷された文字は何もない。
真っ白な紙の上に、万年筆で手書きされた数字だけが並んでいる。
この超管理社会を操る国家の影の役人が、紙の上に、自らの肉筆で文字を書いている。〉




