↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/112

第25話 傷の矛盾

翌朝、私は丘の上の明石の家へ行き、養母から届いたあの四行の返信を見せた。


公営端末の緑色の文字を手書きで写し取ったメモ用紙を、明石は眉間に深い皺を刻みながら、長いあいだ無言で見つめ続けた。


「……二〇二七年。君が一歳のとき、か」


明石は立ち上がり、端末のキーボードの前に座り直した。


「君の幼少期の病名、正確な名前を知っているか」


「進行性の、脳神経の重い病気だったと……それだけです。養母も、それ以上の専門的な病名は知らされていないと言っていました」


「乳児期に発症し、そのまま進行する中枢神経の難病。その種類は、医学の歴史上、極めて限られている。二十年代の小児神経学の全疾患目録を引っ張り出して、一つずつ条件を当てはめて消去法で潰す」


明石が医学論文の巨大な電子書庫に潜り込んだのは、昼過ぎのことだった。


私は一階の薄暗い居間で、膝を抱えて待った。


部屋を埋め尽くしていた紙の山は、先週に比べて私の膝の高さぶんほど低くなっていた。


運び出した二十束の紙は、すでに私の四畳半のアパートの壁際に、頑丈なブロックのように積み上がっている。


国家による強制立入検査は、一昨日の午後にすでに終了していた。


部屋を漁られたものの、持っていかれた紙は一枚もなかったという。


「……アパートの紙を、元のこの家に戻しますか」と今朝訊ねたが、明石は首を横に振った。


「そのまま置いておけ。最初の立入は、ただの現状確認の見回りにすぎない。二度目の手入れが入るときは、トラックで全部を物理的に没収しに来る」


あの擁壁の狭い坂道を私が下りたのは、配送車に挟み撃ちにされたあの日が、最後になった。


私は無意識に右手を伸ばし、自らの後頭部にそっと触れた。


後頭部の右側、耳の後ろから頭頂部へ向けて弧を描く、長さ五センチほどの傷痕。


髪の毛の一本も生えてこない、皮膚の薄い一筋の冷たい溝。


毎晩、銭湯や風呂で頭を洗うたびに、私の指先が無意識に通り抜けてきた場所だ。


——赤ちゃんのとき、頭の重い病気を名医に治してもらったのよ。


子どもの頃、一度だけ養母に尋ねたときに返ってきた答えは、それだけだった。


二階の作業場から、明石の作業音が天井板を通して小さく降りてくる。


激しくキーを叩く音。


プリントアウトした紙をめくる音。


そして、時折立ち上がって、台所の流し台へ水道水を飲みに行く足音。


私は居間で、明石が水場へ往復した回数を数えていた。


二度。


まだ二度しか水場に行っていない。


この男の思考は、まだ分厚い行き止まりの壁には激突していない証拠だった。



   ◆◆◆



夕暮れ時、階段をギシギシと踏み鳴らしながら、明石が下りてきた。


「……見つけたぞ」


「何が分かったんですか」


「たぶん、君の脳を冒していた本当の病気の名前だ」


「たぶん、というのは」


「消去法で絞り込んだ結果だ」


明石はノート端末を胸に抱えたまま、画面を伏せていた。


「二〇二〇年代の臨床医学の目録において、生後一年未満の乳児期に発症し、不可逆的に進行する小児神経疾患は、全部で三十七種類ある。そのすべてをデータベースから洗い出した」


明石は指を一本ずつ折った。


「三十七の病気は、どれも生体の脳組織を急速に破壊していく。病変のメカニズムはそれぞれ異なるが、破壊のベクトルの向きはまったく同じだ。一方通行で、脳の機能を死へと追いやる」


「途中で進行が自然停止する症例は、ないんですか」


「ある。だが、途中で奇跡的に進行が止まった場合であっても、すでに破壊された脳の機能障害は、生涯にわたって不可逆の後遺症として残る」


明石は鋭い目を私に向けた。


「半身の麻痺。失明。重度の言語障害。あるいは知能の発達の完全な停止。病魔が止まったその場所に、必ず残酷な障害の傷痕が刻まれるんだ」


明石は一歩踏み出した。


「だが君はどうだ。二十四歳になり、港の過酷な現場で重いコンテナの荷を担ぎ、毎日細かな数字を照合し、毎晩、あれほど精緻な手記を文章として書き連ねている。身体にも、知能にも、何ひとつ機能障害の痕跡が存在しない」


私は何も言い返せなかった。


「脳を一方通行で破壊するだけの通常の疾患なら、進行が止まったとしても、これほど無傷で健康な脳がこの世に残るはずがない。君の脳が無傷のまま今日まで生き残るためには——破壊された神経回路を、破壊されたそばから、同じ速度で狂ったように作り直していた疾患でなければ、説明がつかないんだ」


「……三十七の目録の中に、そんな病気が存在するんですか」


「たったひとつだけ、存在した」


明石は抱えていた端末を、私の目の前へ向けた。


画面には難解な英語とラテン語の専門用語が並んでいたが、明石の指差した日本語の診断名は、鮮明に読み取ることができた。



〈早発性シナプス過剰剪定・代償性新生症(EHCN)〉



「人間の赤ん坊の脳の中では、成長の過程で、不要になった神経細胞の結合を間引いて回路を整える働きがある。これを専門用語でシナプスの剪定と呼ぶ」


明石は机の上の空の湯呑みを手に取り、中身がないのを見て、再びコトリと置いた。


「通常なら、幼児期から思春期にかけて何年もかけてゆっくりと行われる微調整だ。だがEHCNという疾患では、その剪定プログラムが生後数ヶ月の乳児の脳内で異常暴走する。脳自身が、自分自身の健全な神経ネットワークを、猛烈な速度で自食するように刈り取り始めてしまうんだ」


「……刈り取られた神経は、どうなるんですか」


「脳の自己防衛本能が働き、破壊されたそばから新たなシナプスを代償的に猛烈な勢いで新生させる。壊す力と作る力が、まったく同じ臨界速度で、同時に超高速で回転するんだ」


「崩壊しながら、同時に育っていく……?」


「育ちながら崩壊していく、とも言えるな。医学論文ではこれを『アヴァランチ(雪崩)動態』と記述している。神経ネットワークが、雪崩を起こしながら自己組織化を繰り返す極限状態だ」


「……その病気に罹った子どもは、どうなるんですか」


「記録に残る過去の臨床症例では、全員が数年以内に脳死して死亡している。神経を作り直す代償の速度が、最後に、自己破壊の速度に追いつかれて力尽きるからだ」


「途中で病勢が止まり、生き残った症例は……」


「医学史の公式記録には、世界中でただの《《一件も存在しない》》」


重い一拍の沈黙が、薄暗い部屋に落ちた。


「三十七の候補から、三十六の疾患を完全に消去した。そして残った最後の一つの病気は、この地球上にただの一人も生存者のいない、致死率百パーセントの怪物だ。——物部、もし君が本当にこの病気だったのだとすれば、君は歴史上、世界で初めて生き残った、報告されなかった幻の一例目ということになる」


「……その三十七の目録に載っていない、未知の病気だった可能性はありませんか」


私は震える声で言った。


「医学書に載っていない、三十八番目の病気だったのかもしれません」


「その可能性も、完全には否定できん」


明石は素直に頷いた。


「目録というのは、あくまで国家の学会に報告された病気の一覧表にすぎない。闇に葬られ、公表されなかった症例までを追うことはできんからな。——だから俺は、いまの段階では『たぶん』としか言わない」


雪崩。


生後一歳のとき、私の小さな頭骨の内側で、脳細胞が猛烈な勢いで崩壊し、そして猛烈な勢いで作り直されていた。


私自身には、そんな記憶はどこにも残っていない。


だが、私の細胞組織の記憶のどこかに、あの雪崩の残響が、いまも眠っているのだろうか。



   ◆◆◆



「……当時の治療法は、どうなっていたんですか」


「二〇二〇年代の当時は、有効な治療法など世界に存在しなかった。——だが、二〇三三年に、世界の医療地図が劇的に塗り替えられた」


明石は別の論文アーカイブを開いた。


「思兼から派生した超高度な医療AIモデルが、EHCNの分子メカニズムを完全解明し、完璧な遺伝子治療プロトコルを確立したんだ。それだけじゃない。胎児の出生前診断によって、この病気の遺伝的素因を妊娠初期に百パーセント発見できるようになった」


「発見されたら、どうなるんですか」


「胎児が母親の子宮の中にいるあいだに、遺伝子レベルで完全に治療される。二〇三五年以降、この地球上でEHCNを発症した人間の報告は、統計上、完全な《《ゼロ》》だ」


「ゼロ……」


「生まれてくる前に、すべて根絶されているんだ」


明石は画面から顔を上げた。


「いま、この地球上で、EHCNという病の雪崩を自らの脳の中で経験したことのある生身の人間は——君より若い世代には、ただの一人も存在しない」


私はその言葉の持つ途方もない孤独の意味を噛み締めた。


私の膝の上で、両手の指先が無意識に何かを数えるように小さく動いていた。


だが、数えるべき対象など、この世界のどこにも存在しなかった。


「……私の後頭部にあるこの五センチの傷痕は、その病気を治すための手術の跡だと考えれば、辻褄が合いますか」


「——辻褄が合わんのだ」


明石はパイプ椅子から勢いよく立ち上がった。


部屋を横切り、窓のない漆喰の壁の前でピタリと足を止めた。


そして、背中を向けたまま、重々しく言った。


「物部。……悪いが、ここにもうひとつ、絶対に看過できない決定的な矛盾がある」


「何ですか」


「EHCNの医学的な標準治療プロトコルに、頭蓋骨を切開する【開頭手術】は、最初から一行も入っていない」


冷却ファンの乾いた音だけが、部屋の沈黙を切り裂いていた。


「二〇二〇年代の医学界で行われていたあらゆる実験的アプローチは、新薬の投与と、頭皮の外側から磁気パルスを当てる非侵襲の神経調律だけだ。乳児の頭骨をメスで切り開くような物理的処置は、医学的な適応基準に最初から存在しない」


明石はゆっくりと振り返り、私を凝視した。


「当時の世界中のあらゆる臨床論文を洗い直した。EHCNの患者に対して、頭蓋骨を開けた症例など、記録の中にただの《《一件も存在しない》》」


「一件も……」


「一件もだ。——物部、二十三年前、君の小さな頭蓋骨をメスで切り開いた人間は、君の病気を治すためではない、まったく別の恐るべき目的を持っていたんだ」


私は無意識に右手を伸ばし、自らの後頭部へ触れようとした。


だが、その手は空中でピシリと凍りつき、それ以上動かすことができなかった。


この傷痕は、私の人生の中で、ずっと「治癒の証」だったはずだ。


幼い頃に重い病気にかかり、名医の手術によって命を救われた。


これまでの二十四年間、養母もそう信じ、養父もそう信じ、そして私自身もそう信じて、毎晩手で洗ってきたのだ。


その二十四年間の信念の土台が、いま、音を立てて崩壊しようとしていた。


「……明日も、朝からここへ来い」


明石は端末を静かに閉じた。


「この事件の底にある闇は、まだ半分も姿を現していない」



   ◆◆◆



夜、アパートの四畳半に戻った。


壁際に、明石の家から運び込んだ二十束の紙が、暗闇の中で黙って積まれている。


部屋の明かりもつけずに畳の上に座り込み、私は右手を後頭部へ伸ばした。


五センチの溝の上に、そっと指の腹を置いた。


同じ長さ。


同じ深さ。


指先が通り抜ける皮膚の感触は、昨日までと何ひとつ変わっていなかった。


変わってしまったのは、その傷痕に触れている、私自身の魂の側の解釈だけだった。


机の前へ這い寄り、帳面を開いた。


ナイフで鉛筆を丁寧に削り、今夜の手記には、たった一行だけを書き記した。



〈私の頭の中には、一体、何が入っていたんだ。〉



鉛筆を机の上に置いた。


暗闇の中で天井を見上げたが、今夜は、あの八つの冷たい染みを数えることはしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。