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第24話 声が似とる

翌日も、早朝から明石の家の紙を風呂敷に包んで運んだ。


昨日の狭い擁壁のあるあの坂道は、二度と使わなかった。


旧市街の入り組んだ路地と建物の隙間を大きく迂回し、今日だけで五度目の往復を終えた。


私の四畳半のアパートの壁際には、すでに二十束を超える紙の地層が天井近くまで積み上がっていた。


だが、丘の上の明石の家の書類の山は、まだ半分も減っていなかった。


「……紙の記録を掘るだけでは、もう限界だ」


丘の家に戻ると、明石は青白い端末から目を離して言った。


「紙の向こう側にいた、生身の人間を探し出す」


「人間、ですか」


「二〇二七年に、日向澪という研究者を裁いた側の人間だ。当時の大学の倫理委員会、学会の査問部会、あるいは保安省の法務官。あの時代に彼女を直接知っていて、いまもまだ息をしている生き証人を探す」


明石が電子のゴミ捨て場からサルベージしてきたのは、二〇二〇年代後半の国家学術倫理委員会の公式名簿だった。


当時はまだ民主的な公開情報だったため、古い電子公文書館のインデックスの片隅に、奇跡的にテキストデータが残されていたのだ。


当時の専任委員は、全部で九人。


二十三年という歳月が流れ、いまなお存命なのはわずか三人だけだった。


一人は現在の統治機構の最高科学顧問の座に君臨しており、外部からの接触経路は完全に遮断されている。


もう一人は、政変の混乱の中で海外へ脱出し、完全に消息を絶っている。


「そして、残る最後の一人だ。戸倉時雄(とくら・ときお)。九十一歳。当時の学術倫理委員会の委員長を務めていた男だ」


明石は端末の画面に、現在の戸倉の居住地を表示させた。


都市の電子網の飽和結節点から遠く外れた、郊外の高齢者専用居住区だった。


「二〇二七年のあの時、日向澪の研究申請を審査し、最終的な却下書類に一番上で署名した最高責任者だ。——相手は九十一歳だぞ。会いに行くなら、今日か明日しかない」



   ◆◆◆



翌日、私と明石は連れ立ってその高齢者居住区へ向かった。


電車を乗り継ぎ、旧式のバスに揺られ、さらに舗装の剥がれた坂道を歩いた。


居住区の敷地の入口に、物理的なゲートや鉄格子は存在しなかった。


だが、敷地の境界線のアスファルトに沿って、地面を整然と歩いていた黒い蟻の行列が、ある見えない一本の線を境にして、不自然にパタリと途切れていた。


境界線の内側の地面には、蟻が一匹も存在しない。


大気中のスマートダストの散布密度の急激な段差が、虫たちの微小な神経を麻痺させ、結界のように外側へと弾き飛ばしているのだ。


居住区の中は、異様なほど静まり返っていた。


入居している老人たちが、手入れされた庭のベンチや、陽の当たる通路の縁石に腰を下ろしている。


だが、隣同士で会話を交わしている人間は一人もいない。


時折、一人の老人が、何もない青空の宙に向かって、ぽつりと親しげに語りかける。


「……ダイちゃん、今日は風が冷たいかね」


「ダイちゃん、あの子は今週末、顔を見せてくれるって言ってたかい」


老人たちの耳の奥のコクレア(聴覚端子)に、国家の管理AIが優しい合成音声で答えを返しているのだろう。


その不可視の返答を聞いた老人の顔が、ふわりと安らかにほぐれる。


この国のすべての老人たちが、自分を監視する国家の巨大な電子網に「ダイちゃん」という愛称をつけ、架空の孫のように隣に座らせて余生を過ごしているのだ。


頭上の電線に、一羽のカラスが止まっていた。


カラスが首をクイと動かした瞬間、黒い羽根の根元が、あり得ない鮮やかな桃色に一瞬だけギラリと発光した。


この一帯の土壌に散布されたダストの微細なナノ回路を、餌の虫と一緒に体内に蓄積し続けた結果、羽毛の組織に重金属が沈着しているのだ。


カラス自身は、自分の身体が桃色に変異していることなど、知る由もない。


戸倉元教授への面会申請は、明石が大学時代の元教え子を騙ることで、すんなりとゲートを通過した。


九十一歳の元名誉教授の過去数千人に及ぶ教え子の顔写真を、国家のシステムがいちいち照合するような無駄なリソースは割かれていなかった。



   ◆◆◆



指定された居室の扉を開けると、古い和紙と畳の乾いた匂いが鼻腔を満たした。


部屋の中の温度と湿度は、完璧に制御されていた。


乾燥しすぎず、湿りすぎず、老人の脆弱な皮膚と呼吸器に最も優しい無菌の空気が、一切の機械音を立てずに静かに保たれている。


その空気を一体誰が制御しているのかは、部屋のどこを見渡しても見えない。


九十を過ぎた小柄な老人が、日当たりのいい窓際の安楽椅子に深く腰掛け、膝の上に分厚い紙の本を開いていた。


だが、その目は活字を追っていなかった。


両手で本を開き、黄ばんだページの上に自らの枯れ枝のような掌を置いたまま、微動だにしない。


「……戸倉先生」


明石が声をかけた。


「目はな、もう何年も前から、ほとんど見えんのじゃよ」


老人の声は、年齢から想像していたよりもずっと低く、驚くほど太く明瞭だった。


「だが、紙というものは指先で読める。紙の厚みと、古書の匂いと、ページをめくるときの微かな摩擦音がある。本の中身の数式は、昔から頭の中に全部覚えとるからな」


戸倉はゆっくりと本を閉じ、机の上にコトリと置いた。


そして、白濁した両目をこちらへ向けた。


焦点は、まったく合っていなかった。


「元教え子というのは、嘘じゃな。わしは自分の教え子の肉声は、全員分覚えとる」


明石は言葉を失い、沈黙した。


「用件を手短に言いなさい。九十一の年寄りに残された時間は、あんたら若い連中よりもずっと高価なんじゃ」


「……日向澪(ひなた・みお)」


私が、その名前を静かに口にした。


戸倉の全身の動きが、完全に凍りついた。


机の上に置かれていた老人の右手の指先が、ビクンと一度だけ跳ね、掌を開き、そして固く閉じた。


「……その女の名前を、他人の肉声で外から聞くのは」


重い一拍の沈黙が落ちた。


「——丸二十三年ぶりじゃな」


戸倉は椅子の木製の肘掛けを、皺だらけの手で強く握りしめた。


見えない両目で、私の立っている方角の気配を必死に探るように、上半身をわずかに前へと傾けた。


「……女の研究者じゃった。天才じゃったよ。——『天才』という言葉を、わしは自分の九十年の生涯の中で、たった三度しか使ったことがない」


「その三人のうちの一人が、日向澪だったんですか」


「あの女じゃ」


「彼女は、一体何をしたんですか」


「順番が違うな」


戸倉は首をゆっくりと横に振った。


「『何をしたか』を問う前に、あの女が当時『何をしようとしたのか』を問わねばならん」


戸倉の人差し指が、机の縁を一度だけ指で叩いた。


「あの女は、わしが委員長を務めていた学術倫理委員会に、三度、正式な研究申請を出してきた。三度とも提出書類の形式や名目は変えておったが、根底にある狂気の核心はまったく同じでな。——生きている生身の人間の脳を、殺さずに、そのまま……」


そこで、老人の声がプツリと途切れた。


開かれた口が、次の言葉を紡ぎ出すのを拒むように、硬直して止まった。


窓の外で、一匹の灰色の蛾が、狂ったようにガラスに羽を打ち付けていた。


日中の蛾だ。


明るい太陽の光のほうへは決して飛ぼうとしない。


窓枠の最上部の、壁の配線から漏れ出る微弱な電波の集まる一点だけを、狂気のように旋回し続けている。


「……いや」


戸倉は肘掛けを、骨が軋むほどにさらに強く握りしめた。


「これ以上は、言えん」


さっきまでの滑らかな饒舌さが、引き潮のように急速に引いていった。


「あんたら、自分たちが一体何のパンドラの箱を嗅ぎ回っているのか、本当に分かってここへ来たのか。——これはもはや、学術や科学の倫理の話などではない。とうの昔に、わしたち学者の手を完全に離れた、国家防衛の最高機密——保安省の暗黒の事案なんじゃ」


老人は薄い唇を真一文字に結んだ。


「委員会はあの女の研究申請を、即座に却下した。三度とも、全会一致でな。わしが委員長として、三度とも自筆で却下の署名をした。——わしが生身の人間として話せるのは、そこまでじゃ」


戸倉は言葉を切り、深く息を吐き出した。


それから、自らの内面へ語りかけるように、ぽつりと呟いた。


その声は、先ほどよりもずっと柔らかく、そして深い悔恨に濡れていた。


「……わしの下した判断は、絶対に正しかったと、いまのいままで毎日思っとる。毎朝思い、毎晩ベッドの中で思い返す」


それは、私たちに向けた言葉ではなかった。


九十一歳の老人が、自らの魂に言い聞かせている祈りだった。


「だがな……人間というものは、本当に自分が正しいと確信している行為に対しては、そんなに毎晩毎晩、正しさを確かめ直したりはせんものなんじゃよ」


「……彼女は、申請書類の冒頭になんと書いたんですか」


戸倉は天井を見上げた。


目の見えない老人が、自らの記憶の最も深い底を手探りで探すときの表情だった。


そして、無意識に唇が滑った。



「——これは神への冒涜ではありません。完全なる《《保存》》です」



保存。


老人の唇は、その二文字を吐き出した形のまま、凍りついていた。


「……保存、とは一体何を——」


明石が身を乗り出して問い詰めた。


「もう、よい!」


戸倉が一喝した。


机の上を彷徨っていた老人の指先が、自らの膝の上で固く握りこぶしを作った。


今度は、二度と開かなかった。


「……あの女が、その言葉を口にしたとき、一体どんな凄まじい顔をしておったかは、いまでも鮮明に覚えとる。まだわしの目が見えておった頃の記憶じゃからな」


それだけを、老人は絞り出すようにこぼした。


「あれは、純粋な真理を追う学者の顔では決してなかった。何者かに激しく追いつめられている人間の顔じゃった。……何かの絶対的な《《締切》》に追われて、狂気に取り憑かれた母親の顔じゃったよ。——それが何の締切だったのか、あの女は一言も言わんかった。わしもあえて訊かんかった」


明石がさらに詰め寄った。


「彼女は、その後どうなったんですか」


「……やった」


老人はたった三文字を吐き捨てた。


「倫理委員会の正式な許可を待たずに、私設の研究所で、独断でその手術を強行した。二〇二七年のことじゃ。そして即座に逮捕された。それから先は、わしたち民間の学者の手の届かん、国家の暗黒の底へ連れ去られた。保安省がすべてのデータと身柄を没収していった」


「委員会への報告は」


「通知の紙が一枚だけ届いたよ。『本件は国家安全保障上の重大事案として処理された』とな。それだけじゃ」


「実験の対象となった被験者は、一体誰だったんですか」


「知らん。本当に知らんのじゃ。……ただ、当時の学界の噂ではな」


戸倉の指先が、微かに震えた。


「対象となった生体は、あの女にとって、最も身近な、かけがえのない人間だったらしい」



   ◆◆◆



私と明石は、それ以上の追及を諦め、部屋を退去することにした。


私が玄関の引き戸のノブに手をかけたその瞬間、背後から老人の太い声が呼び止めた。


「……あんた」


振り返ると、老人は安楽椅子に深く腰掛けたまま、虚空を見つめていた。


白濁した両目は、当然ながら私の姿を捉えていない。


「……声が、似とる」


私の心臓が、トクンと激しく跳ね上がった。


「……誰の声に、似ているんですか」


戸倉は答えなかった。


首を静かに横に振った。


「分からん。誰の声だったかは思い出せんが……昔、どこかで確かに聞いたことのある声じゃ。九十一年も生きておると、記憶の中の声が多すぎてな。……すまんが、いまの独り言は忘れてくれ」


老人は机の上の紙の本を、再び両手で手探りで開いた。


黄ばんだページの上に自らの掌を重ね、もはやこちらの存在など完全に忘れてしまったかのように、沈黙の中に沈んでいった。



   ◆◆◆



その夜、私は旧市街の公営端末へ立ち寄った。


いつもはメッセージの閲覧にしか使わない端末のメニュー画面で、私は迷わず【新規送信】のコマンドを選択した。


送信先の宛先コードに、記憶の中にある物部の実家の固定端末の番号を打ち込んだ。



〈急にごめん。

僕の頭の手術は、

何年でしたか〉



三行。


自分の名前の署名は、あえて打たなかった。


それから丸四日間、公営端末の受信トレイは完全な空のままだった。


そして、五日目の夜。


端末の画面を開くと、新着メッセージが一通だけ届いていた。



〈手帳のメモに二〇二七年と。

あなたが一つのときです。

どうかしたの。

母〉



四行。


養母・物部佐知子は、普段の短信を必ず二行の本文と「母」という署名の、計三行で端的に終わらせる几帳面な人だった。


その養母が、今回は本文を三行書き、計四行のメッセージを送ってきた。


増えた最後の一行——〈どうかしたの。〉


古い手帳のメモを探し出すのに、丸五日間の時間がかかったのだろう。


あるいは、その増えた最後の一行を、文字として書き記すべきか否かを迷い、苦悩するのに、五日間の夜が必要だったのだ。


二〇二七年。


私が、頭部を切開され、原因不明の手術痕を刻まれた年。


日向澪が、倫理委員会の許可なく人体実験を強行し、保安省に逮捕された年。


特許庁の公的台帳において、神経科学の特許番号が永久欠番となった年。


そして、国家安全保障上の重大事案として、保安令状が発付された年。


——四つの【二〇二七年】という数字が、私の目の前に完璧な直線となって並んでいた。


いまの段階では、四つの点を法的に結びつける決定的な証拠は何ひとつない。


客観的な証拠は何もないのに、画面を見つめる私の右手の指先は、激しく震えて止まらなかった。


紙屋の暗闇の中で、あの「日向澪」という文字を初めて目撃したときと、まったく同じ魂の痙攣だった。


蛍光灯の切れた薄暗い廊下の中で、公営端末の液晶画面の青白い緑色の光だけが、暗闇を照らしていた。


その冷たい光が、震え続ける私の手の甲の皮膚を、青白く照らし出していた。


——あんた、声が似とる。


九十一歳の盲目の老人が放ったあの一言が、私の耳の奥底で、いつまでも、いつまでも木霊のように鳴り響いていた。

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