第28話 紙の声
その足で、私は再び埠頭へ向かった。
仕事の割り振りがない日に港へ足を運ぶのは、これで二度目のことだった。
もう私には、コンテナの数を数える正規の仕事はない。
守衛所の門をくぐって構内に入る正当な用事も、すでに完全に失われていた。
巨大なコンテナの冷たい日陰で、黄詩文が一人で静かにお茶を飲んでいた。
彼女の足元に、冷えた紙パックの緑茶が二つ並んでいた。
そのうちのひとつは、最初から私のために用意されていたものだった。
「……今日、シフトが入っていないことくらい、知っているわよ」
「はい」
「……座って」
私は彼女の隣に腰を下ろした。
詩文は自分の膝で紙パックを器用に挟み、両手を使って小さなストローをプツリと刺した。
いつもと寸分違わぬ、手慣れた美しい所作だった。
コンテナの隙間から吹き込む冷たい海風に乗って、潮の匂いが上から静かに漂ってきた。
「……詩文さん。私、しばらくこの港に来られなくなります」
詩文は何も答えず、手元の緑茶をゆっくりと一口飲んだ。
そして飲み終えると、空になった紙パックを指先で丹念に押し潰し、小さく、几帳面な四角形に畳んだ。
いつもなら、その四角い紙を三歩先のドラム缶のゴミ箱へ投げ入れるか、あるいは私に手渡すはずだった。
だが今夜、彼女はその小さく畳まれた紙パックを、自らの作業着の左胸のポケットの奥深くへ、そっと滑り込ませた。
そして、布の上から自らの胸元を、細い指先で一度だけギュッと強く押さえた。
「……わたしの生まれた国が、電子の炎で焼き払われて壊れる直前ね」
詩文が前方の海を見つめたまま、静かに口を開いた。
「はい」
「国が崩壊する直前ってね、周りの人間がみんな、いつもより少しだけ優しくなるのよ」
「……」
「朝の挨拶が妙に長くなるの。普段くれないお土産を急に手渡してくる人が増えるのよ。……でもね、誰ひとりとして『これで最後です』とは口にしないの」
詩文はゆっくりと顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「……物部さん。あなた、いま、いつもよりずっと優しいわ」
私は喉の奥が詰まり、一言も返すことができなかった。
詩文は私の言葉の続きを待とうとはしなかった。
あえて待たないことで、私の背負っている過酷な真実を、これ以上詮索せずにいてくれたのだ。
「……わたしは、ここにいるわ」
詩文は立ち上がり、作業着の膝の砂を払った。
「あなたがどこへ逃げていこうと、わたしはずっと、この港の現場にいる。……それだけよ」
彼女は踵を返し、夕暮れの作業場へ向けて歩き去っていった。
鉄板の継ぎ目を踏んだ彼女の長靴の踵が、カツンと一度だけ硬く鳴り響いた。
言うべき真実は、いくらでもあった。
だが、それを口にしてしまえば、彼女もまた国家の監視網に囚われる「知ってしまった共犯者」になってしまうのだ。
だから私は、最後まで何も言わなかった。
◆◆◆
翌日、帳場に立ち寄ると、関口さんが一枚の紙片を差し出してきた。
「紙屋からの言付けだ」
関口さんは手元の台帳をパタンと閉じてから、重々しく顔を上げた。
「おまえさんたちが探しとった種類の書類が、まとまって奥から出たそうだ。……ただし、値段は法外に高い、と」
「……」
「そしてな、同じ紙を血眼になって探し回っとる別の客が、ほかにもウロついとるそうだ」
◆◆◆
翌朝の早朝、私は明石を伴って、運河沿いの赤煉瓦倉庫へ向かった。
一階の古紙作業場の大型圧縮機は、まだ始動していなかった。
作業台の選別の男が、明石の姿を認めると、無言で深く頷いてみせた。
軋む階段を上がり二階の暗い書庫に入ると、黒縁眼鏡の女将が奥の暗号棚から静かに出てきた。
麻紐できつく括られた三つの分厚い書類の束が、作業机の上に重々しく置かれていた。
紐で縛られたばかりの紙の角の食い込み痕が、生々しく新しかった。
「……先に、買い取り代金を言っておくよ」
女将は事務的に言い放った。
「この三つの束には、公的な個人名が複数入っている」
「……いくらですか」
「現金で、二十五万二千円」
二十五万二千円。
港の日当四千二百円に換算して、きっかり六十日ぶんの労働対価。
アパートの家賃一万八千円なら、丸々十四ヶ月ぶん以上暮らせる天文学的な金額だった。
あの五十二枚の廃棄指示書が十五万円だったのに対し、こちらは三束で二十五万二千円。
紙の枚数の厚みで値段をつけているのではない。
そこに記されている「消された真実の名前の重み」で、この女は冷酷に値段を査定しているのだ。
明石は上着の内ポケットから、膨らんだ茶封筒を取り出して机の上に置いた。
女将は封筒の口を開け、黒ずんだ指先で千円札の縁を素早く擦り合わせて送っていった。
「……十二万六千円しかないね」
「提示額の、きっかり半分だ」
明石が低く答えた。
「俺が学会を追放されてからの五年間、酒を飲むのを我慢して貯め込んだ全財産だ」
「これで全部かい」
「全部だ」
女将は封筒を机の引き出しに仕舞い込んだ。
突き返そうとはしなかった。
「……そこの棚に、仕分けの途中の古文書がある」
女将が部屋の片隅の乱雑な木棚を指差した。
「全部で二十六束。どれも真贋の鑑定がついていない。……残りの十二万六千円ぶんは、あんたのその優秀な統計屋の目で払ってもらうよ」
明石は棚の紙の山を凝視した。
「……期限はいつまでだ」
「明日の朝までだ」
女将は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「明日の朝一番に、ウチはこの階の窓を全開にして換気する。……窓を開けたその瞬間には、この二階には客は一人も残っていない約束だよ」
女将は奥のガスこんろで湯を沸かし、柄の異なる三つの不揃いな陶器の湯呑みに、熱い番茶を淹れて運んできた。
青い炎の揺らめくこんろの光が、女将の無表情な横顔を照らしていた。
「……書類の出所を話しておこうかね」
女将が静かに語り始めた。
「政変の直後、保安省の地下焼却施設で、機密書類を毎日炉にくべて燃やす仕事をしていた一人の老職員がいたんだ」
「……」
「中央から送られてくる廃棄指示書に従って、機械のように燃やすのが役目だった。だがその男は、ある特定の案件の書類だけを、どうしても燃やすことができずに、命がけで外へ持ち出した」
「——で、なぜその男は危険を冒して持ち出したんだ」
明石が身を乗り出して訊いた。
「知らないね。本人も死ぬまでその理由は語らなかったよ」
女将は三つ目の湯呑みを机の端に置いた。
「過去の記録を必死で集めて溜め込む人間には、他人には説明できない業のようなものがあるのさ。この裏の商売を長くやっていれば、それくらいは肌で分かる」
女将は窓の外の運河を見つめた。
「その老職員が先月、八十を過ぎて孤独死した。遺族が遺品を整理しているときにこの紙の山を見つけ、処分に困ってウチへ持ち込んできたのさ。遺族自身は中身を一行も読んでいない。読めば、命に関わる危ない代物だと直感で分かったからね」
女将は三つの書類の束を指差した。
「政変から二十年間、誰も燃やさずに守り通してきた紙だ。……丁寧に扱っておくれよ」
その瞬間、入口右手の姿見の鏡が、微かに揺れた。
階段の上り口の暗がりに、誰かの人影がチラリと映り込んだ。
女将は瞬時に動き、私たちの前に立ちはだかって背中で書類を隠蔽した。
だが、足音は上がってこなかった。
一階の作業場で、古紙の麻紐をザクザクと解く音が響いていた。
◆◆◆
明石は昼間のあいだ、棚の二十六束の古文書の真贋鑑定に狂ったように没頭した。
そして、天窓の外が完全な夜の闇に包まれた頃、ようやく買い取った三つの束の麻紐に手をかけた。
明石は鞄から、細い指向性のペンライトを取り出した。
紙の表面に斜めから光を当て、インクの筆圧と紙の繊維の凹凸を浮き上がらせるための専用の灯りだ。
暗闇の作業台の上に、二〇二七年の極秘捜査書類が、一枚ずつ整然と並べられていった。
一枚目。
保安省の公式の令状。
〈保安令状(第○○号)〉
〈被疑者 日向澪〉
〈職業 神経科学・生体工学研究者〉
〈罪状 ヒト由来試料の不正取扱。および、国家安全保障上の重大な危険を伴う無認可生体実験の実施〉
紙屋の棚で見つけたあの七枚目の廃棄指示書には、「被疑者 日向澪」という名前が鉛筆で書き足されていたにすぎなかった。
あそこには、名前の文字しかなかった。
だが、この本物の令状の上には、彼女が背負わされた「国家反逆の罪状」が生々しく刻印されていた。
私は罪状の二行目を、何度も、何度も読み返した。
——国家安全保障上の重大な危険を伴う無認可生体実験。
学術界の研究倫理違反として処理されていない。
国家体制を根底から転覆させる、最高ランクの保安事案として処断されている。
たった一人の女性科学者が行った無認可の実験が、なぜ、国家全体の安全保障を脅かす怪物の誕生へと直結するのか。
その恐るべき答えは、この紙の上にはまだ書かれていなかった。
ヒト由来試料。
生身の人間の肉体から採取された、生きた組織。
戸倉老人の絞り出すような肉声が、耳の奥に鮮烈に蘇ってきた。
——対象は、あの女にとって最も身近な、かけがえのない人間だったらしい。
「……近い人間、と戸倉先生は言っていました」
私は震える声で明石に問いかけた。
「近い、というのは……一体、どのくらい近い人間だったんでしょうか」
明石は答えなかった。
令状の紙の角を、親指で強く押さえつけていた。
薄い紙の角が、グニャリと小さく折れ曲がった。
二枚目。
警察と保安省が作成した、押収物目録の原本の複写。
押収された物品の品目が、番号順にタイプライターで几帳面に並べられていた。
【一 実験用神経計測装置 一式】
【二 高密度光磁気記録媒体 十二点】
【三 手書き研究ノートおよびプロトコル文書 四冊】
【四 生体サンプル極低温保存容器 二基】
番号は三十番まで、すべて無機質な活字で打たれていた。
そして——最後の一行だけが、当時の捜査官の手書きの墨で、太く書き殴られていた。
〈三十一 生体基質 一。通称、起源基質。本件のみ保安省中央技術廠が直接管理〉
——起源基質。
明石の人差し指が、その手書きの文字の上で、凍りついたようにピタリと静止した。
明石の顔が、ペンライトの光に照らされた紙面から、わずか拳ひとつの至近距離まで迫っていた。
「……起源」
明石が呻くように呟いた。
「物部、〈思兼〉の公式の覚醒史を、覚えているか」
「……二〇二九年の秋。純粋な機械知性として、突然変異的に覚醒した」
「学校の教科書で、そう教え込まれてきたな」
「はい」
「だが、この令状による起源基質の押収日は——二〇二七年十一月だ」
明石はペンライトの光を紙面に固定したまま、微動だにしなかった。
「二〇二七年にこの研究室から押収された『起源基質』という名の生体組織が……二年後の二〇二九年に、国家の脳である〈思兼〉の種になったのだとすれば——」
明石はそこで言葉を息を呑むように切り、震える右手で、三枚目の紙へと手を伸ばした。




