第02話 読まれない文章
体育館を出ると、春の光が目に濃かった。
日はまだ高い。
口入れ屋の掲示板からは、日の暮れる前に札がなくなる。明日の日銭は、そこまで歩いて確保しなければ手に入らない。
駅までの緩い坂道を、人々が足音も立てずに歩いていた。
静かなのは口先だけだ。耳の奥ではダイモンたちが絶え間なく囁き交わし、持ち主の代わりに値切り、謝罪し、口説き合っている。
二人の男が、無言ですれ違いざまに会釈だけを交わした。
ダイモン同士の商談がまとまったのだろう。
契約はすでに脳内で成立していて、肉体の側には表面的な挨拶だけが残されている。
すれ違う人々の視線が、ときどき、私には見えない宙の一点を見つめていた。
街路の広告膜の表面を一瞬だけ凝視し、安心したように目を逸らす。
アイリスを通せば、そこに銘の透かしが青く点っているのだという。
この映像は正しい出自を持つ、と。
私の剥き出しの眼球には、膜に映る平板な絵しか届かない。
出自を保証されない情報は、この国では雑音と呼ばれる。
誰も読まない。誰も見ない。
読まなくてよい、と法律が保証してくれているからだ。
私は雑音の側で、この無菌の街を歩いている。
街路樹の枝で、一羽のカラスが低く羽ばたいた。
羽の先端が、ありえない濁った桃色にぎらりと光った。
足を止めて、しばらく見上げていた。
近頃のカラスは、ときどき、ああいう異質な色を分泌する。
理由は知らない。通り過ぎる人々は、誰ひとり空を見上げない。
駅前の書店の前に、整然とした行列ができていた。
硝子窓の内側で、初老の男が一冊ずつ、重厚な万年筆で署名をしている。
胸元には金色の徽章——〈人間認証済〉。
平積みの帯には太い活字が躍っていた。
〈全文、人間の手になる長篇。神盾検定済〉
並ぶ人々の顔は、高級な輸入菓子を待つ裕福な客の顔だった。
人間の書いた文章は、いまや産地証明つきの嗜好品だ。
硝子越しにしばらくその光景を眺め、それから静かに歩き出した。
羨む練習をするには、十六年は長すぎた。
書店の脇の植込みの縁に、若い男が虚ろに座り込んでいた。
上等な仕立ての靴を履いている。
目は見開かれているが、瞳の焦点がまったく合っていない。耳の下の皮膚が小刻みにひきつり、唇だけが、誰にも聞こえない相手に向かって返事を返し続けていた。
算欠だ。
月の半ばで与えられた推論枠を使い果たした人間は、皆こういう無防備な顔になる。
眠る時刻も、部屋の適温も、次の一言も、すべて耳奥の声に決めてもらっていた男が、いま、その演算を買い足す金を持っていない。
通りかかった数人が、彼を汚物のように避けて道を変えた。
避けたのは人間自身の判断ではなく、彼らの耳の中でダイモンが警告を発したからかもしれない。
高架下の巨大な柱では、完璧な美貌の人型が広告膜の中で甘く微笑んでいた。
〈彼は決して、あなたを誤解しません〉
伴侶型ダイモンの最新広告だ。
画面の最下部に、目を凝らさなければ読めない極小の活字で、但し書きが流れていた。
〈※本製品との誓約は、法的効力を有しません〉
銘のない愛は、この国では法的にも雑音であるらしい。
こちらは、誤解される権利すら与えられずにいるのだが。
駅前の大型膜では、今日も神盾の紋章が威厳を放っていた。
盾の意匠と、見飽きた標語。
その膜のどこかにも、正しい出自を保証する不可視の透かしが点っているはずだった。
国家が国家のために貼り出した広告にさえ、私には銘を確かめる術がない。
雑音の側から見れば、国家の言葉も、ただの鮮やかな絵にすぎない。
◆◆◆
坂を下り、日の落ちる前に口入れ屋へ着いた。
板には札が三枚だけ残っていた。埠頭の検数、日払い、現金。
四千二百円。
人格証明の要らない仕事は、体を使う単純労働と、肉体の目で物を見る仕事だけだ。
札を一枚剥がして帳場へ差し出すと、老人は帳面に無造作に印をつけ、奥の金庫を開けた。
重厚な鉄の金庫には、この界隈で動く一日ぶんの現金が眠っている。
国じゅうの金が電子の数字になったあとも、ここではまだ、硬貨と紙幣が物理的な重さを持っていた。
前の週の分を勘定して渡しながら、帳場の老人が言った。
「あんた、字ぃ書けるんだったな。明日の伝票、頼むわ」
私は黙って頷いた。
この老人は知らない。
私の書く伝票が、この国でもっとも高精度に「機械の生成物」と判定される不気味な字だということを。
知っていたとしても、この老人は頼むのだろうが。
ここでの字は、現場の人間に読めて、雨で消えなければ、それで十分だからだ。
アパートへの急な坂道は、夕暮れの窓明かりのなかに沈んでいた。
明かりのひとつひとつの奥で、生涯働いたことのない、そしてこれからも働く必要のない人々が暮らしている。
基礎配給が彼らの端末に自動で振り込まれ、ダイモンが今夜の栄養を計算し、空調を制御し、見るべき夢の輪郭を整える。
坂の下から、繭型の自動車輌が一台、滑るような無音で上がってきた。
道の幅は、いつのまにか車一台ぶんの狭さになっていた。
上等な車輌の周りからは、歩行者が自然と退いていく。空間に金を払っているからだ。立ち止まれること、他人に進路を譲らせずに済むことのほうが、この国では高くつく。
私は避けきれなかった。
肘の骨が車体へ触れた一点で、硬質だった外装がゴムのように柔らかく変形し、私の体温をわずかに受けて、半歩ぶんの位置を静かに押し返してきた。
痛みはない。骨も軋まない。
この国の車輌は、人を絶対に轢かない。
轢かれて死ぬ権利すら、こちらには用意されていない。
電柱に、灰色の蛾が数匹、固まって蠢いていた。
街灯の光には寄らず、何もないコンクリートの一点にへばりついている。
ダイモンの高周波通信が空中で結節する熱に、虫が引き寄せられているのだと、以前埠頭の年寄りが教えてくれた。
この街の虫はもう、太陽や電球の光を追ってはいない。
責める気はない。世界がそう作り変えられた、というだけだ。
ただ、この坂を上りきった四畳半の部屋には、配給を受け取る端末そのものを持たない人間が住んでいて、だから明日も埠頭で荷の山を数える。
働く必要が消えた世界で、働かなければ飢える者だけが、いまも汗を流して働いている。
労働はいつのまにか、人間の尊厳ではなく、貧困の刻印になっていた。
◆◆◆
部屋に戻り、小さな鍋で湯を沸かした。
棚からフェイク・プロテインの安価なパックを一つ取り出し、立ったまま銀紙を剥いて口に押し込んだ。
噛む前に、舌の上で脆く形が崩れる。
不自然な塩気の底から、遅れて、刺すような金属の後味が舌の奥に残った。
奥歯の根元からじわりと唾液が湧き、しばらく引かない。
舌のほうが、その味の正体を先に思い出そうとする——乾電池の端子を不用意に舐めた、幼い頃の冷たい記憶を、人工の味が後から呼び戻してくる。
百二十円。腹を満たすだけなら、文句はない。
それから、軋む木の机に向かった。
誰にも頼まれていない、そして誰も読むことのない文章を書くためだ。
机の脇に、埃をかぶった古い紙箱がひとつある。
判定で弾かれた答案。
突き返された求職の原稿。
破って捨てそこねた便箋の束。
読まれなかった文章の墓場だ。
今日の分の不合格通知も、数日後に届いたら、間違いなくここへ放り込まれることになる。
笑ってくれてかまわない。
十六年間、おまえは人間ではないと言われ続けた男の、唯一の無力な反抗がこれだ。
私は書く。
機械に判定されるためではなく、もはや、誰かに読まれるためですらなく、ただ、私が書いたという事実をこの紙の上に残すために。
今日の日付の下、最初の一行を、私はこう書き始めた。
〈最後の試験の日は、よく晴れていた〉




