第01話 検定
これを読んでいるあなたに、先に謝っておく。
この文章は、機械が書いたことになっている。
私が書くものは、すべてそうだ。
小学二年の読書感想文から、昨日出した履歴書の自己PR欄まで、例外は一度もない。
国家検定機構〈神盾〉は、私の書いたものを、ただの一度も人間のものだと認めていない。
判定精度、百パーセント。
街のどの壁にも貼ってある。
〈神盾は、間違えない〉
だからこれは、機械の書いた文章だ。
少なくとも、書類の上ではそうなる。
それでも読むというのなら、続けよう。
◆◆◆
最後の試験の日は、よく晴れていた。
その朝、私は五年ぶりに髭を丁寧に剃った。
一着しかない上着を窓の外で叩くと、埃が春の光のなかで白い筋になって落ちていった。
家賃は月初に払ってある。一万八千円を封筒に入れて、大家の老婦人の手に直接渡す。
現金を受け取ってくれる人間は、この街でも数えるほどになった。
受け取るたびに、老婦人は同じことを言う。
「あんたの金は数えられるから好きだよ」
国じゅうの金がとうに電子の数字になり、数字が数字を生み続けている。
私の財産だけが、まだ手で数えられる側に残っていた。
港湾管理公社、立会人職、最終選考。
募集要項は、口入れ屋の壁に画鋲で留めてあった。日雇いの札に紛れて、四隅が上に反り返っていた。
仕事の中身は、いま日銭でやっていることと大差ない。
埠頭に入る現物の荷と、荷に添えられた紙の履歴証書とを、人間の目で突き合わせ、自筆で署名する。
機械にやらせれば百倍速い。ダイモンにやらせれば千倍正確だろう。
それでも法は、この署名にだけは人間の手を要求する。
網に繋がっていない人間は、遠隔で操作できない。
知覚を書き換えられない。
署名を事後に改竄できない。
穴が要るのだ。この国のどこかに、書き換えの届かない穴が。
コクレアも、アイリスも、ダイモンも、銘も、私はなにひとつ持っていない。
その欠落が、この椅子のほとんど唯一の応募資格だった。
私が最終選考まで残れた理由は、私の人生でいちばん確かな欠落だ。
要項の末尾に、小さな活字で一行あった。
〈正規採用者は、人格証明等級の再審査を請求することができる〉
再審査。
書類の上で、もう一度、人間になれる。
私はその一行を、たぶん百回は読んだ。
百一回目を読まないために、要項は箱の底にしまった。
◆◆◆
試験場は港湾会館の体育館だった。政変より前に建った古い建物で、鉄の重い扉を引いた瞬間、閉じこめられていた冷たい空気が先に外へ押し出されてきた。
床用ワックスと、塩素消毒液と、その底に沈む海の塩気。
天井の高いところで換気の羽根がゆっくりと回っていて、その低い唸りの振動が、床板を伝って脛の骨へ響いてくる。
床は継ぎ目ごとに色が黒ずみ、何十年ぶんものワックスが層になって重なっていた。目地の窪みにだけ、白い削り粉がついている。
並べられた長机の細い脚には、赤茶けた錆が輪になって浮いていた。
パイプ椅子に腰を下ろすと、冷えた鉄の座面から、腿の裏を伝って体温が奪われていく。
開場前の列で、前に並んだ中年の女が振り返っていた。
首筋に、古い認知措置の痕がある。手のひらほどの、色の抜けた楕円。
「あんた、埠頭の検数の人だろ。落ちたら、また向こうで会うだろうさ」
慰めとしては、これ以上のものを私は知らない。
落ちても世界が続くと言ってくれる人間は、貴重だ。
入口には、コクレアを預け、アイリスを剥がし、ダイモンを建物の外で待たせよ、という掲示が出ていた。
預けるものを持たない受験者のほうが、多かったが。
机は二十ばかり。座っているのは私の同類たちだ。
指の節の太い老人。
さっきの女。
一番前の席の若い男は、鉛筆の持ち方を、たったいま思い出そうとしているように見えた。
机の上には藁半紙が三枚と、削られた鉛筆が二本。
紙の縁を撫でると、粗い植物繊維が指の腹に引っかかって、そこが微かに熱を持った。
文明がここまで進んで、人間の証明には、いまだに鉛筆が使われている。
電源を持たない。通信をしない。
そして、書いた者の筆圧を、黒鉛の濃淡としてそのまま紙に残していく。
偽装できないのは、文章ではない。手のほうだ。
課題は一行だった。
〈あなたにとって「働く」とは何か。八百字以内で述べよ〉
働く必要のなくなった世界の役所が、働かなければ食えない人間を二十人集めて、働くとは何かと訊いている。
口の端が動きかけたのを、私は止めた。
誰も笑っていない。笑うところではなかったらしい。
若い頃は、あらゆる工夫をした。
わざと下手に書いた。
死んだ作家の文体を写した。
利き手と逆の手で書いた。
結果はすべて同じだった。
陽性。陽性。陽性。
工夫が尽きたとき、ようやく分かった。
神盾が見ているのは、文章の表面ではない。もっと下にある、私に隠しようのないものだ。
だから、いまはもう、正直に書く。
体育館じゅうで、藁半紙の上を鉛筆が走る、さくさくとした硬い音が重なっていた。
鉛筆の六角の稜が、掌の同じ場所に当たり、前と同じ窪みの跡を残した。
荷を数える手と、字を書く手は、私のなかでは同じ場所に住んでいる。
八百字。
埋めるのに三十分もかからないが、私はゆっくりと書いた。
急ぐ理由が、人生のどこを探してもなかったからだ。
書き出しは、こうだった。
〈働かなくてよい、と国が言う。ありがたい話だと思う。ただ、その言葉がすべての人に届くわけではないことを、私は埠頭で知った。〉
そして、最後の段落だけは、いまでもそらで言える。
〈私には銘がない。だから体で書く。荷を数え、担ぎ、日が落ちる頃に指が震えていれば、それがその日、私が世界に書いた文字だ。働くとは、読まれない人間に許された、唯一の筆跡である。〉
読んだ人間がいれば、の話だが。
◆◆◆
結果を待つあいだ、私は試験官たちの顔を見ていた。
長年のうちに、人がこちらに向ける顔を、私は四つに分けるようになった。
第一種、憐れみ。
第二種、侮蔑。
第三種、好奇。
そして第四種——これがいちばん多い——何も見なかったことにする顔。
八歳の秋、最初の陽性をもらった夜の食卓を、私はいまでも鮮明に覚えている。
養父も養母も、私を叱らなかった。責めもしなかった。
ただ、味噌汁を啜る音だけが、やけに響いた夜だった。
あの底冷えのする静けさに比べれば、大人になってから貰う陽性など、なにほどのこともない。
読み取り機は演台の脇にあった。灰色の金属箱で、天板に細いスリットが一本走っている。
番号を呼ばれた者から前へ出て、答案をその溝に差し入れる。
一番前の若い男が呼ばれた。
ローラーが紙の端を挟み込み、彼の八百字を箱の内側へ機械的に引き込んでいく。
三秒。
吐き出された紙の端に、緑の印字が出ていた。
〈陰性——人格認証〉
男は印字の意味がすぐには分からなかったらしく、係員に二度訊き返してから、口元を歪めて小さく笑った。
彼の八百字は、きっと酷い出来だったろう。
誤字だらけで、行は曲がり、結論は最後まで出ていなかったかもしれない。
だが、正真正銘、人間のものだった。
人間であることに、文章の巧拙は関係がない。
むしろ拙いほど、疑われない。
私の番が来た。
スリットに答案を差し入れると、ローラーの無機質な震えが指先まで伝わり、紙が私の手から吸い込まれるように離れていった。
箱の内側で、回転が一度だけ止まる。
三秒。
出てきた紙は、端がわずかに温かかった。灼かれた植物繊維の、焦げた匂いが鼻を突く。
〈陽性——人格非認証〉
唾液が干からびて、舌が上顎に貼りついた。
耳の奥で、極細の金属糸を引き絞るような高調波が鳴り始める。
紙のほうが先に私を読み、私より先に答えを確定させていた——その因果の逆転に奇妙な目眩を覚えて、指先から肘までが冷たく痺れた。
読み取り係は若い女だった。
赤い印字を見て、それから、規定の確認手順なのだろう、答案の文面に目を落とした。
三秒。
彼女の指が、紙の端でぴたりと止まっていた。
その瞳が一度だけ、紙面から私の顔へと上がった。
唇がわずかに開き、微かな息だけが漏れた。結局なにも言わず、彼女は第四種の顔に戻り、書類に無感情に印を捺した。
「お疲れさまでした。結果はご自宅のダイモンに……ああ、失礼。書面で、郵送します」
たぶん、読みたくて読んだのではない。
手順書に、確認という項目があっただけだ。
それでも彼女は、三秒のあいだ、私の八百字を確かに読んだ。
最初の陽性から十六年。
私の文章が読まれた、最長距離だった。




