第19話 日向
明石が暗黒の電子書庫の底に潜り込んでいるあいだにも、現実の私の日常からは、確実に生きるための枠が削り取られていた。
翌日は入っていた。
翌々日も入っていた。
だがその次の三日目に、またしても私の行だけがぽっかりと空いた。
朝の帳場で、関口さんが台帳の数字を指でなぞりながら確かめた。
「今週は三日入って、二日空いた。先週は四日で一日空いたな」
「……確実に減っています」
「減ってる。——だが、港に入ってくる荷の総数は一トンも減っちゃいねえ」
関口さんは窓口の金庫の真鍮の鍵を、布で挟んで念入りに磨いていた。
布の端で、鍵の細かい溝のところだけを何度も、何度も往復させる。
この老人が強い苛立ちや手持ち無沙汰を押し殺しているときの、昔からの癖だった。
「ほかの作業員はどうですか。永田さんたちは」
「永田は四日入ってる。黄さんは五日フルだ。……物部、おまえさん一人の枠だけが、ピンポイントで削られてる」
鍵を磨く老人の手は、止まらなかった。
「埠頭の配置表の配分計算は、港湾公社の巨大な管理システムが自動でやってる。人間の帳場係が恣意的に割り振ってるんじゃない。機械のアルゴリズムが、おまえさんの名前だけを不気味に弾き出してるんだ」
「弾かれる理由は、分からないんですか」
「分からん。そのブラックボックスの中身は、現場の窓口には一切開示されん」
関口さんは鍵を引き出しの奥へ戻した。
戻しながら、私の顔を一度も見ようとしなかった。
「……ただ、な。二十年前の政変の混乱期にも、まったく同じ光景を見たことがある。国家の制度がひとりの人間を名簿から完全に消し去るときは、まず最初に仕事の割り振りが減るんだ。全部いっぺんにゼロにするんじゃない。少しずつ、じわじわとな。当事者本人が、『単なる配分の手違いだろう』と自分に言い訳できるくらいの絶妙な遅さで削っていく」
私は息を呑み、何も言葉を返せなかった。
「制度が静かに人を殺すときは、必ず最初はその手順を踏む。——物部、本当に気をつけろよ」
◆◆◆
その足で、丘の上の明石の家へ向かった。
明石は薄暗い作業場で、青白い端末の前に座り込んでいた。
今日はコーヒーのカップも、水のコップも置かれていない。
作業机の片隅に、昨夜のうちに徹夜で書き溜めたらしい方眼紙のメモが、文字を伏せるように裏返しに置かれていた。
「……座ってくれ」
明石は旧政府時代の事件索引のアーカイブをモニタに表示させた。
政変前の電子書庫の、最も深い底からサルベージしてきた極秘データだという。
「二〇二七年。管理番号が確かに発番されているのに、参照先の事件名と被疑者名が完全な空白になっている項目がある。何者かが、公的索引から名前だけを物理的に抜き取ったんだ」
画面を覗き込んだ。
連番で並ぶ事件記録の中で、たった一箇所だけ、参照先のテキスト欄が真っ白な空白になっている。
前後の行には、事件名や担当部署のコードが几帳面に記載されている。
この行だけ、事件の存在を示す番号だけを残して、中身が綺麗に消去されていた。
「番号そのものが残っているということは、手続きのミスによる抹消じゃない。事件の存在を知る特権階級による、意図的な隠蔽工作だ」
明石は画面を素早く切り替えた。
「そして、まったく同じ二〇二七年のファイルに、別の奇妙な令状記録が残っていた」
〈保安令状(第○○号) ヒト由来試料の不正取扱および国家機密漏洩に関する件〉
「……ヒト由来試料」
「生体組織、血液、細胞、神経組織。生身の人間の肉体から採取されたあらゆる生体物質の総称だ。これだけの記述では、具体的に何が起きたのかまでは絞り込めない。概念が広すぎる」
「ですが、厚生省ではなく、保安省が令状を発付しています」
「まさにそこだ」
明石は画面を指差した。
「通常の人体実験や研究倫理の重大違反なら、所管する医事局や厚生労働機関が調査に入る。国家治安を司る保安省が自ら令状を切って動くことなどあり得ない。保安省が直接乗り出してくるのは——」
「国家体制そのものの安全保障が、根底から脅かされたときだけですね」
「そうだ。——これで、五つ目の穴だ」
仕様書の行間余白。
特許台帳の欠番。
紙の裏写りに残された転写痕。
開発予算の完全な不在。
そして、二〇二七年の保安令状。
五つの穴が、全部、二〇二七年という同一の方角を向いていた。
「ここから先へ進むには、この保安令状に書かれていたはずの、被疑者である研究者の実名が絶対に要る。誰が容疑者だったのかが分かれば、その人物が当時何を開発していたのかの全貌に一気に迫れる」
「ですが、電子の索引からは名前が完全に抜き取られているんですよね」
「そうだ。デジタル空間のあらゆるサーバを探しても、その名前はもう二度と出てこない」
明石は端末の電源を静かに落とした。
「だが、紙の原本には、まだどこかに残されているかもしれない」
◆◆◆
その夜、私はアパートへ帰る途中、旧市街の公営端末へ立ち寄った。
古い集合住宅の一階。
蛍光灯が寿命で切れ、薄暗い廊下の突き当たりの壁に、鉄の筐体がひっそりと据え付けられている。
夜の廊下は完全な暗闇で、自分の足元や手元の指先すら見えない。
だが、テンキーの凹凸の位置は、私の指が長年の反復で完璧に記憶していた。
暗証番号を打ち込むと、小さな液晶画面の黒い背景の上に、緑色の無機質な文字が浮かび上がった。
受信トレイの中に、新着のメッセージが一通だけ届いていた。
〈2027年。日向。
それで調べて。
——K〉
日向。
これまでの私の人生で、一度も聞いたことのない名前だった。
研究者の個人名なのか、それとも地名や組織のコードネームなのかすら判別がつかない。
前回のKからの短信は、「あなたの零点には、価値がある」という、私個人しか知らない孤独の言葉を突いてきた。
そして今回は、具体的な年号と、ひとつの固有名詞を直接指定してきた。
謎の送信者Kは、私と明石がいま何を調べ、どの暗黒の壁にぶち当たっているのかを、完全に知っている。
知悉したうえで、私たちの歩みの先へ先回りをしているのだ。
私はメッセージを削除しなかった。
Kの正体を無条件に信じたわけではない。
だが、Kが提示してきた「二〇二七年」という数字は、明石が見つけ出したあの保安令状の発付年と、寸分違わず一致していた。
これを単なる偶然の一致として切り捨てることなど、絶対に不可能だった。
◆◆◆
翌朝、私は丘の上の明石の家へ行き、端末の液晶画面をそのまま見せた。
明石は腕組みをしたまま、その緑色の文字を数分間にわたって凝視し続けた。
「……日向、か」
「心当たりはありますか」
「いや、聞いたことがない。——だが、この名前を国家のデータベースのゴミ捨て場で直接検索してみよう」
明石は自作端末に「日向」と「2027」のキーワードを入力し、裏書庫の検索クエリを走らせた。
ヒット件数——ゼロ。
画面には「該当する公的記録なし」という冷酷なエラーメッセージが表示された。
「やはり、完全に消去されていますね」
「消去されている。——だが、その消し方の挙動に、極めて特徴的な癖がある」
明石がモニタの右隅を指差した。
エラーメッセージのすぐ下に、ミリ秒単位の応答時間のログが表示されていた。
「システムの応答時間を見ろ。この世に最初から存在しない架空の文字列を検索した場合、インデックスの判定は瞬時に終わり、千分の一秒もかからずにゼロを返す。だが、この『日向』という単語を投げたときだけ、システムは五ミリ秒ものあいだ沈黙してから、不自然にゼロを返してきている」
明石は同じ検索を三回繰り返し、三回ともまったく同じ遅延ログを指差してみせた。
「データそのものは、サーバの物理ストレージの中に確かに存在しているんだ。ただ、検索結果を出力する直前のフィルタリング層で、表示だけを強引に遮断されている。——消されたんじゃない。国家によって、厳重に隠蔽されているんだ」
名前は、確かにそこに実在している。
だが、電子の画面を通して見ることは決して許されない。
「やはり、紙の記録を直接見に行くしかない」
明石が確信を込めて繰り返した。
「紙の上に手で書かれた記録だけは、中央の検索フィルタで隠蔽することなど絶対にできないからな」
◆◆◆
その日は、港の朝番が入っていた。
午前四時半の吹きさらしの埠頭で、私は黙々とコンテナの荷を数え、鉛の封印を確かめ、伝票に署名した。
正午の休憩時間、コンテナの冷たい日陰に座っていると、黄詩文が隣に腰を下ろしてきた。
彼女は両手に、冷えた紙パックの緑茶を二つ持っていた。
初夏の五月の空はどこまでも高く青く澄み渡り、白い雲が強い風に乗って速いスピードで走っていた。
「……昨日、現場に来なかったわね」
「はい。昨日は枠が空きでした」
「また空きだったの?」
「はい」
詩文はストローを指先でプチリと刺し、私の膝の上に静かに置いた。
そして、自分のぶんのパックを開け、喉を潤した。
「……物部さん、仕事、減らされてるでしょう」
「少しだけです」
詩文はお茶を飲みながら、コンテナの隙間から見える東京湾の海をじっと見つめていた。
潮風を受けて、黒く深い水面が細かく波立っている。
「……急に全部の仕事がゼロになったらね、人間は怒ることができるのよ」
詩文は紙パックを両手で包み込むように握りしめたまま、静かに言った。
「でも、こうやって少しずつ、少しずつ真綿で首を絞めるように減らされると……人間は、どこで怒りの声を上げていいのか、分からなくなっちゃうのよ」
私は冷たいお茶を口に含んだ。
喉の奥を、苦い緑茶の冷気が通り抜けていく。
「……私は、怒ってはいませんよ」
「ええ。あなたは怒らない人ね。最初から全部を諦めて受け入れてしまう人よ」
詩文は飲み終えた紙パックを指先で丁寧に押し潰し、いつものように小さく、几帳面な四角形に畳んでみせた。
「でもね、物部さん。普段怒らない優しい人が、理不尽に遭って黙り込んでしまうと……見ている周りの人間は、もっと胸が苦しくて心配になるのよ。——人間、怒りを爆発させたほうが、ずっと救われる夜だってあるんだから」
詩文はそう言い残すと、すっと立ち上がり、作業着の裾を直して午後の仕事へと戻っていった。
私はコンテナの影に座り込んだまま、どこまでも広がる五月の青空を見上げていた。
広大な空は、誰の言葉も判定せず、ただ静かに広がっていた。
◆◆◆
アパートの四畳半に戻り、机の前に座って帳面を開いた。
〈日向、という名前をKが送ってきた。
私の知らない名前だ。
だがその名前は、二〇二七年に穿たれた五つの穴の、最も深い底に眠っている。
穴は五つになった。
そして私の生きる就労枠は、またひとつ削られた。
歴史に穴があくことと、私の日常から枠が減っていくことは、たぶん、まったく同じひとつの理由によるものだ。〉
鉛筆を置き、深く息を吐いた。
電子網が塞がれているなら、紙の現物を直接見に行くしかないのだと、明石は言った。
私は、この旧市街の片隅で、紙という物質だけを頼りにして四十年ものあいだ飯を食い続けてきた古老を、一人だけ知っていた。




