第18話 欠番
翌日は、港の就労枠が予定どおりに入っていた。
永田さんと黄詩文の二人と並んで、朝四時半からの午前番を八時間、きっちりとこなした。
冷たい海風の中でコンテナの荷を数え、鉛の封印を素手で確かめ、自筆で伝票に署名した。
自分の生きる場所と仕事がまだ世界に残っているという事実が、今日ばかりは、たまらなくありがたく感じられた。
正午に現場を上がり、その足で丘の上の明石の家へ向かった。
明石は薄暗い作業場にいた。
いつものブラックコーヒーではなく、ガラスのコップで水道水を飲んでいた。
水場に立ち尽くすのは行き止まりの敗北の合図だったはずだが、今日の男の様子は明らかに違っていた。
充血した瞳の焦点が、昨日よりもずっと近い、机の上の資料に鋭く結ばれていた。
作業机の上に、表紙の擦り切れたあの古い仕様書が開かれていた。
「……何か、見つかったんですか」
「見つかった、とは言えないな。見つかったのは、ただの穴だ。——二つ目の穴だよ」
明石は端末の画面を叩き、同じ仕様書の公的な電子版をモニタに表示させた。
「巻末の、参照特許の一覧表を見てみろ」
画面の下部に、味気ない罫線の表が配置されていた。
思兼の技術体系が依拠している、先行特許の管理番号と出願年が機械的に並んでいる。
「表の一行目を見ろ。思兼の根幹である『適応型混成知能の基本構造』に関する参照特許だ。特許番号は非公開、出願年は二〇二九年」
〈基礎技術参照 特許番号:(国家防衛機密につき非公開) 出願年:二〇二九〉
「……国家の公式の歴史年表と、完全に一致していますね」
「表面上はな。だが、その一行目のすぐ下の余白をよく見ろ」
明石が指差した場所を凝視した。
表の他の行の間隔はすべて等幅で整然と組まれているのに、この一行目の下だけ、行と行の隙間が、ほんの数ミリだけ不自然に広くなっていた。
「……たった数ミリの隙間でしょう。単なる印刷や組版のレイアウトのズレでは」
「ただのズレかもしれない」
明石は椅子の背もたれに体重を預け、乾いた笑みを漏らした。
「だが俺はこの仕様書を、学会から追放されてからの丸五年間、毎晩毎晩、穴が開くほど眺め続けてきたんだ。安い酒を呷りながらな。最初の一年は、自分の書いた論文の正しさを証明したくて。次の一年は、ただの惰性で。三年目以降は、もう何のために読んでいるのかすら分からなくなっていた。この暗闇の部屋で、他に読むべき活字が何ひとつなかったからだ」
明石の左手の人差し指が、画面の余白をそっとなぞった。
「何千回目かの夜に、この一行の下の空白の幅だけが、他の行間よりコンマ数ミリ広いことに気づいた。電子組版のプログラムが、不可視の文字コードを無理やり消去した結果、一行ぶんの空間が物理的に残ってしまったんだ。ここにはかつて、確実に別の特許の行が存在していた。——公的な証拠はない。だが五年間、俺の目は毎晩同じ結論を叩き出し続けてきた」
「消されたその行に、一体何が書かれていたんですか」
「内容は分からない。だが、その特許が位置していた時代なら確実に分かる。参照特許の年表順で、二〇二九年の《《上》》にあったんだ。つまり、二〇二九年より前の年に出願された、思兼の真のルーツとなる特許が、ここに書かれていた」
明石は画面を静かに切り替えた。
「今朝、特許庁の全歴史の管理番号台帳のバックアップを裏から引き出した」
画面に、上から下へと果てしなく続く、膨大な数字の列が表示された。
「特許というものは、出願されたその瞬間に、国のシステムによって一意の管理番号が自動で発番される。この番号は完全な連番で、後から番号を詰めたり変更したりすることは絶対にできない。仮に出願が却下されようが、取り消されようが、番号そのものは永久欠番として台帳に残る」
明石はスクロールの手を止めた。
「残るはずなんだ」
画面のリストがピタリと静止した。
一箇所、異様な空白があった。
整然と並ぶ連番の数字の鎖のなかで、たったひとつだけ、綺麗に数字が飛んでいる場所があった。
その前後の特許番号は隙間なく埋まっているのに、その一点だけが、物理的な欠番になっていた。
部屋の中から、すべての生活音が消え失せた。
冷却ファンの無機質な唸りだけが、薄暗い部屋を満たしていた。
「……欠番ですね」
「三つ目の穴だ」
明石が呟いた。
「出願年は——二〇二七年。技術の分類コードから逆引きすると、当時の国際特許分類で『神経科学・生体情報工学』のカテゴリに属している」
明石は画面を二つに分割した。
「二〇二七年の欠番と、仕様書から消去された二〇二九年以前の特許の行。時代が綺麗に重なる」
「二つの穴は……繋がっているんですか」
「まだ分からない」
明石の声は、冷徹なまでに客観的だった。
「二つの巨大な穴が、まったく同じ方角を向いて口を開けている。いま言えるのはそれだけだ。——だが、この三つ目の穴の形は、もう少し深く測定できる」
◆◆◆
明石は特許庁の欠番データの周辺ログを高解像度で拡大した。
前後の管理番号には、出願者名や法人名、技術の要約テキストが細かく紐づいている。
だが、この欠番の行だけは、あらゆるテキストデータが完全に空白化されていた。
「だが、当時の特許出願はまだ完全な電子化の過渡期だった。紙の仮出願書式を手作業でスキャニングしたPDFのアーカイブが、古い画像サーバの片隅に残っていたんだ」
別のウィンドウが開いた。
政変前の、見慣れない古い行政文書のフォーマットだった。
入力欄の枠線の中は、軍事機密のように分厚い黒塗りで完全に塗り潰されている。
活字として読める文字は、何ひとつ残っていなかった。
「デジタルの黒塗り処理は完璧だ。どんな画像解析をかけても、黒の下の文字は復元できない。だが、これは人間が紙の書類を重ねてスキャンした画像だ」
明石は画像の右端の余白を最大倍率まで拡大した。
「スキャン元の原本の紙には、研究者が自筆で走り書きした手書きの注記欄があった。そして、そのインクが乾く前に次の書類を重ねたせいで、隣のページの裏側に、微細なインクの滲みが転写されていたんだ」
紙だからこそ起きる、物理的なアクシデントだ。
電子のデータは綺麗に消せても、紙とインクが起こした物理的な転写の痕跡までは、黒塗りの担当者も気づかなかったのだ。
「解読できたのは、たったの二語だけだ」
画面の拡大図の中に、手書きの微かな擦れが浮かび上がっていた。
〈生体基質〉
〈発達過程の連続記録〉
「……それだけですか」
「それだけだ」
「たった二語です。当時の脳科学や神経工学の論文なら、ごく普通に使われていた専門用語ではないですか」
「そのとおりだ」
明石は素直に認めた。
「この二つの単語だけで、思兼の正体を法的に断定することはできない。——だが、これで穴は四つになった」
明石は右手の指を一本ずつ折って数え上げた。
「ひとつめ。思兼の開発にかかったはずの、巨額の研究予算の完全な不在。
ふたつめ。公開仕様書の余白に残された、消去された先行特許の空白行。
みっつめ。特許庁の台帳に穿たれた、二〇二七年の神経科学特許の欠番。
そしてよっつめ。紙の裏写りに残された、生体基質と発達記録という生々しい二語」
四本目の指を折ったところで、明石は掌を大きく開いてみせた。
「すべてが単なる偶然の積み重ねかもしれない。だがこの四つの穴はすべて、二〇二七年という同じ年、そして人間の側というまったく同じ方角を向いている」
明石は端末の電源を静かに閉じた。
「一般に公開されているアーカイブから引き出せる限界は、ここが完全な終点だ」
「ここから先は、どうするんですか」
「公開されていない、本当の暗黒の底を探す。政変前の旧政府が封印した最高機密書庫の、一番深い底まで潜る。——今夜、決行する」
◆◆◆
帰り道、夕暮れの旧市街の長い坂道を下っていった。
西の空がゆっくりと暮れ、街の街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
私の肉眼には、その灯りはただの温かいオレンジ色の光として見える。
網膜にアイリスを埋め込んだ一般市民の目には、その光の上に、国家が描いた美しい仮想の街並みが重なって見えているのだろう。
四つの穴が、同じ暗黒の方角を向いている。
その巨大な空白の先に、一体どんな恐ろしい真実が埋められているのか、いまの私にはまだ分からない。
だが、国家がこれほどまでに徹底して消去しなければならなかった記録の量が多ければ多いほど、そこに隠された真実の質量は、途方もなく巨大であるはずだった。
アパートに戻り、机の前に座って帳面を開いた。
〈穴が四つになった。
明石は、四つとも同じ方角を向いていると言った。
その方角の先に、一体何が眠っているのか。
歴史からこの穴を掘り出した人間たちは、何を恐れて真実を地中深く埋めたのか。
まだ分からない。
ただ、新たな穴があくたびに、埋められたものの恐るべき輪郭が、少しずつ、夜の霧の中から浮かび上がってくる。
そこにはまだ、名前がついていない。〉
暗闇の中で天井を見上げ、染みを数えた。
八つ。
何ひとつ変わらない。
だが今夜は、八つの染みを数え終えるまでに、ひどく長い時間がかかった。
私の目は、染みそのものではなく、染みと染みのあいだにある、何もない冷たい空白ばかりを、いつまでも追い続けていた。




