第17話 行き止まり
〈思兼〉が、一体どこから生まれ、誰の手で作られたのかを調べる。
そう宣言してから丸三日間、明石は青白い端末の画面の前からほとんど一歩も動かなかった。
朝四時半、私が埠頭へ向かう途中に立ち寄ると、明石は目を充血させて画面に向かっている。
昼休みに様子を見に行くと、まだ同じ姿勢でキーボードを叩いている。
夜、仕事終わりに訪ねると、やはり画面の青白い光の中に埋もれている。
変わっていくのは、机の上に積み重なっていくコーヒーの空きカップの数だけだった。
一日目は二杯。
二日目は四杯。
三日目は六杯。
杯数が増えていくのは、調査が順調に進んでいるからでは決してない。
思考が行き詰まり、体を動かすための唯一の口実が、手動のミルで豆を挽くことしか残されていないからだ。
「……何か、手がかりは見つかりましたか」
「手がかりが見つからない、という恐るべき事実だけが見つかったよ」
明石は画面から目を離さずに、干からびた声で言った。
見つからないのではない。
国家の手によって、最初から完璧に消去されているのだ。
明石が電子の深淵から血眼になって探していたのは、思兼の初期開発に関わるあらゆる公的記録だった。
この国の公式の正史では、二〇二九年の秋、未曾有の社会混乱のなかで真の機械知性として突如として覚醒した、とだけ美しく記されている。
それ以前の基礎研究や開発のプロセスは、すべて国家安全保障の最高機密として非公開の分厚いカーテンの向こうに隠されていた。
だが、どんなに機密指定された計画であっても、現実世界で巨大なシステムを作る以上、その痕跡は必ず別の場所に物理的に漏れ出る。
学会の学術論文のアーカイブ書庫。
特許庁の意匠登録と出願索引。
そして何より、旧政府時代から続く国家予算の配分と決算の公的帳簿。
明石はあらゆる公的データベースの裏口をハッキングし、政変前の古い数表を片端から洗い出していた。
「巨大な知能を開発するには、天文学的な予算が動く。予算が動けば、必ず財務の記録が残る。優秀な研究者が動けば、人事の名簿が残る」
明石は真鍮製ミルの蓋を開け、黒い豆をひと掬い落とした。
「この世にひとつの新たな知能が産声を上げたのなら、それが生まれるまでに費やされた莫大な金の痕跡が、歴史のどこかに必ず刻まれているはずなんだ」
だが、どこを探しても、存在しなかった。
二〇二九年より前の記録のどこにも、思兼の根幹に関わるような大規模なAI研究予算の計上記録が一行も存在しないのだ。
大学や国立研究所からの研究者の異動記録も、特許の先行出願も、何ひとつない。
二〇二九年のある日、まるで何の前触れもなく、完全な完成品として突如として歴史の表舞台に現れている。
「一円の公金も使わず、一人の研究者も動員せずに、世界を統べる神のような知能が完成したと、公式記録は言っている」
明石はミルをごりごりと回した。
不規則な摩擦音が、部屋を埋め尽くす紙の山の間に重く落ちた。
「人間の赤ん坊だって、母親の胎内で形作られて生まれるまでに十月十日かかるんだぞ」
不自然極まりない。
だが、何がどう不自然なのかを公的に証明するための、具体的な数字の手がかりが掴めない。
巨大な空白——「穴」だけが、ぽっかりと口を開けていた。
穴の輪郭だけがくっきりと見えていて、穴の中に埋まっていたはずの本体が何も見えない。
明石は端末の脇に、手書きの方眼ノートをバサリと広げた。
細いボールペンで書かれた無数の数字の列が、何ページにもわたってびっしりと並んでいる。
「公的記録を抹消した人間は、記録のテキストそのものは綺麗に消し去ることができる。だが、そのデータがシステムの中で占めていた物理的な《《容量》》と《《連番の隙間》》だけは、絶対に消すことができない」
明石はノートのページを捲った。
「公文書館の書庫の管理番号は、すべて厳密な通し番号だ。その番号が、不自然に飛んでいる箇所がある。番号が飛んだ幅の広さから、消去された元データの容量が正確に逆算できるんだ」
ノートには、不自然に欠落した飛び番の一覧と、その容量から推計されたプロジェクト規模の計算式が並んでいた。
穴の形状を外側から正確に測定することで、そこに埋められていたはずの物体の質量を割り出す。
消去されたものの不在の輪郭から、かつて存在した真実の影を浮かび上がらせる手法だ。
「逆算すると、二〇二五年から二〇二九年にかけての四年間、複数の省庁を横断して、超大型の国家プロジェクトが丸々三つぶん、公文書の索引から完全に消去されている」
明石は挽き終えた粉をペーパーフィルターへ落とした。
「だが、当時の国家予算書には、それに見合う巨額の支出項目がどこにも見当たらない。巨大な金が動いた痕跡だけがシステムに残されて、その金の宛先と名前だけが、跡形もなく消されているんだ」
◆◆◆
四日目の早朝、明石は端末を静かに閉じ、台所の流し台へ向かった。
蛇口がキィと軋み、ガラスのコップに水道水を注ぐ澄んだ音が響いた。
それきり、部屋の中が静まり返った。
水を飲んでいるのではない。
並々と水を注いだコップを右手に持ったまま、薄暗い流しの前に石像のように立ち尽くしているのだ。
この男が台所の水場に無言で立ち尽くすのは、あらゆる仮説が分厚い行き止まりの壁に激突したときの癖だった。
「……行き止まりだ」
背中を向けたまま、明石が呟いた。
「一般に公開されているデータからは、もうこれ以上は何も出てこない。消去の仕方が完璧すぎる。これを消した黒幕は、後世の人間がどこを調べて真実に迫ろうとするかを、完全に知り尽くしていたプロだ」
コップの底がステンレスの流しの縁に当たり、硬い乾いた音を立てた。
「——素人の仕事じゃない」
◆◆◆
その足で、私は朝の埠頭へ向かった。
午前四時半の冷え切った守衛所。
木製の窓口で、紙の勤務票に自筆で名前を書く。
窓口の脇に貼られた黄色い掲示板——〈検数従事者の電子機器・補助器具の持ち込みを厳禁す〉——の文字を横目で見ながら、勤務票を関口さんに差し出した。
関口さんは票を受け取り、私の筆跡を一瞥してから、机の上の分厚い配置台帳を開いた。
開いてから、眉をひそめて一度閉じた。
そして、もう一度ゆっくりと開いた。
「……物部、おまえさん、今日は空きだ」
「昨日の時点では、今日の枠に入っていました」
「入ってた。だが今朝、中央からの修正指示で、入ってこなくなった」
私は窓口越しに、関口さんの広げた台帳を覗き込んだ。
永田さんの名前はある。
黄詩文の名前もある。
砂川さんも、ほかの非認証の作業員たちの名前も、全員分が几帳面に並んでいる。
今日の作業列の中で、私の名前の行だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。
消しゴムで消された痕跡でもない。
赤い二重線で抹消された跡でもない。
最初から、その世界に私が存在しなかったかのように、空白のまま印刷された一行だった。
「……何かの手違いだろう」
関口さんが言った。
その声の調子は、不気味なほど平坦だった。
何の手違いでもないことを、百も承知している人間の声だった。
「明日の配置は、どうなっていますか」
関口さんは翌日の配置表をめくった。
「明日は入ってる。……今日だけの手違いだな」
帰り際、薄暗い休憩室の入口で、出勤してきた黄詩文とすれ違った。
彼女は午前番の作業着に着替えているところだった。
「……物部さん、今日は空きだったんですか?」
詩文は作業着の胸元のボタンを指先でひとつずつ留めながら、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
胸元の白い布地が整えられていく所作の向こうから、彼女の微かな体温の匂いがふわりと漂ってくる。
「ええ、手違いで今日だけ外れたみたいです」
「珍しいわね」
「そうですね」
「……でも、たまにはゆっくり体を休められるじゃない」
「そうですね。休むことにします」
詩文は身支度を終え、休憩室の出口へ向かって歩き出した。
そして、扉のノブに手をかけたところで、くるりと振り返った。
「……明日は、一緒のシフトよね」
「はい。明日は入っています」
「じゃあ、また明日ね」
詩文はそう優しく微笑み、足早に出ていった。
一日中、アパートの四畳半で何もすることがなかった。
畳の上に座り、壁を見つめて過ごした。
仕事がない日なら、これまでも幾度となくあった。
大雨で船が出ない日。荷の到着が遅れた日。
だがそういう日は、現場全体が休みになるのであって、私一人の名前だけが綺麗に間引かれることなど、過去に一度もなかった。
配分表の空白の一行。
手違いだと思い込もうとしたが、どうしても思えなかった。
◆◆◆
夕方、私は再び丘の上の明石の家を訪ねた。
明石は、朝と同じように台所の流し台の前に立ち尽くしていた。
コップの中の水は、朝注がれたときの水位のまま、一滴も減っていなかった。
「……今日、港の仕事がありませんでした」
明石がゆっくりと振り返った。
「今日だけか」
「明日は入っています」
「明日入っているなら、単なる配分の偶然かもしれないな」
「……かもしれません」
明石はコップの水を流しに捨て、作業場へ戻った。
そして、青白い端末ではなく、机の最下段の頑丈な引き出しに手をかけた。
引き出しの奥から取り出されたのは、綴じ穴の縁が擦り切れ、背表紙に埃が筋になって残っている、分厚い紙の書類の束だった。
「公に公開されている電子データは、すべて完璧な偽りの壁だった」
明石は埃を払うこともせず、その分厚い書類を机の上にドンと置いた。
「だが俺には、学会を追放されてからの五年間、毎晩毎晩、穴が開くほど眺め続けてきたものが、もうひとつだけある」
表紙に、色褪せた活字で印字されていた。
【〈思兼〉基本構造・初期公開仕様書(二〇二九年暫定版)】
「明日、この仕様書を最初の一行から徹底的に読み直す。——物部、君も朝からここへ来い」
◆◆◆
帰り道、旧市街へ続く坂道を下りながら、夕暮れの空を見上げた。
都市の空は、大気中の微粒子によって、色彩が常に管理されているのだという。
補正される前の本当の空の色がどんなものだったのか、いまの私にはもう知る術がない。
今夜の空は、どこまでも薄く、冷たい橙色をしていた。
部屋に戻り、机の前に座って帳面を開いた。
鉛筆をナイフで丁寧に削り、静かに記した。
〈探しているものの本当の姿が何なのか、私にはまだ分からない。
分からないまま、明石とともに、世界に穿たれた巨大な穴を数え続けている。
穴の形は、かつてそこにあった何かが、乱暴に引き抜かれたあとの形だ。
引き抜かれたものの真の名前を、私はまだ知らない。
今日、私の日常から、仕事という名の確かな一行が削られた。
それもまた、ひとつの小さな穴だ。
私の生きる足元に、音もなく穴があいていく。〉
天井を見上げ、染みを数えた。
八つ。
何ひとつ変わらない。
世界のすべてが欺瞞と空白に呑み込まれようとするなかで、この八つの冷たい染みの不変さだけが、今夜の私の孤独な心を、静かに支えていた。




