第20話 紙屋
関口さんという老人に、私から私的な頼みごとをしたのは、これが生まれて初めてのことだった。
「……政変の頃の、古い紙の記録を専門に扱っている店を、ご存じありませんか」
早朝の帳場の窓口で、朝番の紙の勤務票を差し出しながら、私は低く切り出した。
今日は、辛うじて枠が残っていた日だった。
週に三日しかない貴重な就労割り振りの、その一日目。
関口さんは勤務票を受け取り、いつものように私の自筆の筆跡を一瞥した。
それから、手元の台帳にじっと目を落とした。
「……紙、だと」
「旧政府時代の公文書です。保安省の古い極秘記録。とくに、二〇二七年前後のものを取り扱っている場所を探しています」
関口さんは無言で台帳をパタンと閉じた。
関口さんは帳簿を閉じ、金庫の前に深く座り直して、しばらくのあいだ黙り込んだ。
帳場の奥の小部屋で、朝番の永田さんが湯を沸かす微かな物音が聞こえていた。
「……物部、おまえさん、やっぱり裏で何かやってるな」
私は肯定も否定もしなかった。
この百戦錬磨の老人に嘘をついても瞬時に見破られるからではなく、何より、ここまで面倒を見てくれた恩人に対して嘘をつくこと自体が、人間として不誠実極まりないと思ったからだ。
関口さんは机の深い引き出しを開けた。
一番奥の暗がりから、埃を被った一枚の長方形の紙を取り出した。
紙の名刺だった。
国家認証の電子チップなど埋め込まれていない、上等な厚手の和紙に、住所と屋号だけが墨で刷られている。
「二十年前の政変のどさくさのとき、うちの帳場の古い勤務台帳を、現金の札束で買い取りに来た怪しい人間がいる。わしは叩き出したがな。だが、そのときに置いていった名刺だけは、万が一のために捨てずに取っておいた」
名刺の中央には、簡素な筆文字で、たった二文字。
【紙屋】
店名なのか、家業の屋号なのか、あるいは店主の偽名なのかすら判別がつかない。
住所は、旧市街の最も外れ、海へと注ぐ運河沿いの巨大な倉庫街の一角だった。
厚紙を親指の腹でそっとなぞると、文字の輪郭が微かに紙の奥へ凹んでいた。
金属の活字の版を職人の手で組み、一枚ずつ物理的な強い圧力を加えて刷り上げた本物の活版印刷だった。
この超管理社会において、紙という物質にわざわざ肉体的な圧力を加えて文字を刻む人間など、そう多くはない。
古い台帳の紙を手放せない関口さんのような頑固な老人か、あるいは、国家の網から完全に名を隠して裏の商いを営む人間くらいのものだ。
「……くれぐれも気をつけろよ」
関口さんが低い声で警告した。
「紙を買いに来る店には、消したはずの紙を探し回っている保安省の役人どもも、客のふりをして夜な夜な紛れ込んでくる。おまえさんが何を嗅ぎ回っているか、向こうの警察組織にも筒抜けになるリスクがあるぞ」
「承知の上です」
「……承知の上で飛び込む人間に、わしがこれ以上言えることは何もない。——店に入ったら、入口のすぐ右手の棚を見ろ。客の出入りを監視するための姿見の鏡が仕掛けてある。鏡の奥に知らない不審な顔が映ったら、問答無用で裏口の非常階段から逃げろ」
旧政府の職業安定所にいたはずの老人が、なぜ闇市場の非合法な店舗の内装や間取りまで知り尽くしているのか、私はあえて深く訊かなかった。
◆◆◆
夕方、港の仕事を終えたその足で、運河沿いの倉庫街へ向かった。
運河沿いの古い石畳の道は、日が西へ傾くと、まるで潮が引くように人の気配が完全に消え失せた。
昼のあいだ巨大なクレーンで荷を動かしていた重油と鉄の匂いだけが、固く閉ざされた錆びたシャッターの内側に重く淀んでいる。
ちょうど引き潮の時間帯だった。
運河の苔むした石垣が、海水が引いた高さのぶんだけ、黒く湿り気を帯びて冷たい風に晒されていた。
倉庫街の奥へ歩みを進めるにつれて、私の肉体の奥底が、不思議なほど静まり返っていくのが分かった。
普段、街の中を歩いているときに背中の皮膚のあたりで常に波打っていた、あの不可視の電波の圧迫感が、ここでは極限まで薄くなっている。
港湾の最果てのこの一帯は、国家の計算用砂粒の散布密度が最も薄い、見捨てられた空白地帯なのだ。
いかなる機械にも監視されていない剥き出しの空気は、生身のT0(非認証者)である私の肉体には、驚くほど自然に馴染んだ。
指定された住所の「紙屋」は、運河に面した古い赤煉瓦倉庫の二階にあった。
一階は、街中から集められた古紙の回収作業場になっており、新聞紙や段ボールの山が、天井までブロック状に圧縮されて積み上げられていた。
銘の刻印のない、無数の紙の山。
この国の法制度の上では、これらはすべて価値のない「ノイズ」だ。
誰が生み出したのかも分からない文字が、誰の目にも触れられないまま、巨大な圧縮機で押し潰され、運河の向こうの溶解炉へと運ばれてドロドロのパルプに還元される。
倉庫の奥で、油圧式の大型圧縮機が鈍い音を立てて稼働していた。
紙の巨大な束を鉄の歯でガリガリと噛み砕き、ひと呼吸おいてから、ズシンと重い圧力でペッタンコに押し潰す。
潰されるたびに、湿った古紙とインクの、饐えた埃っぽい匂いが辺りに立ち込めた。
作業台の前で古紙を選別していた作業着の男が一人、私を無言で見上げた。
見上げて、すぐに手元の作業へと視線を戻した。
ここへやって来る不審な余所者の存在に、完全に慣れきっている冷たい目だった。
この場所を訪れる人間はみな、一階の作業場には目もくれず、二階の闇の書庫へと上がっていくのだ。
男は圧縮機へ送り込む紙の束を、分厚い親指の先で器用にパラパラと弾いていた。
何十枚かに一枚の割合で、束の中から特定の紙を素早く抜き取り、自分の足元に置かれた木箱の中へ放り込んでいる。
その木箱の中の紙だけは、圧縮機の粉砕口へは送られない。
男の選別の速度は、機械のように一定だった。
紙に書かれている文章を、目で読んで選んでいるのではない。
朱肉の丸い印鑑か、万年筆の署名か、それとも手書きの幾何学的な符丁か——紙の表面に「公的な痕跡」が物理的に存在するかどうかを、指先の皮膚の感触だけで判別しているのだ。
この名もなき男の親指ひとつが、溶解炉で灰になる紙と、二階で生き残る紙の運命を冷酷に二つに切り分けていた。
圧縮機の脇に、まだ結束されていない公文書の束が乱雑に積まれていた。
破れた新聞紙の隙間から、二十年以上前の旧政府機関の丸い朱印が覗いている。
そしてその朱印の真上に、鮮やかな赤い角型スタンプで、無造作に押されていた。
【処分済】
朱印のインクは二十年前のセピア色に褪せている。
だが、その上に重ねられた「処分済」の赤い文字だけが、まるで昨日のことのように生々しく新しかった。
◆◆◆
ギシギシと軋む狭い木製階段を上がり、二階の引き戸を開けた。
二階の部屋に入った瞬間、一階の饐えた匂いとはまったく異なる、清涼で乾燥した空気が鼻先を掠めた。
部屋全体の温度と湿度が、極めて厳密にコントロールされている。
電動の最新エアコンが動いているのではない。
窓の微細な開き具合と、棚の足元に整然と並べられた大量のシリカゲル除湿剤によって、職人技で維持されているのだ。
古い紙という物質は、空気中の湿気によって急速に酸化し、崩壊する。
その物理的な脆弱性を知り尽くした人間が、この部屋の環境を管理している証拠だった。
部屋の中に、人工の電灯はひとつも点いていなかった。
西日が埃っぽいガラス窓から斜めに差し込み、宙を舞う無数の埃の粒子を黄金色に浮かび上がらせているだけだ。
電灯の配線を引けば、その銅線を伝って外部から監視センサが侵入してくる。
だからこの部屋は、夕暮れの日没の速度に合わせて、自然のままに暗闇へと沈んでいくのだ。
壁一面に頑丈な木製の書棚が並び、その上には年代と出所ごとに分類された膨大な紙の束が、整然と保管されていた。
分厚いファイル、茶封筒、紐綴じのバインダー、そして剥き出しの原稿用紙の束。
そのすべての背表紙に、手書きの墨で細かく札が貼られている。
年号と、かつて存在した中央省庁の略称記号。
一階でゴミとして溶かされるはずだった歴史の残骸が、この二階の暗闇の中でだけは、固有の名前を与えられて静かに息づいていた。
手前の棚の束のひとつに、古い藁半紙の切れ端が挟まれていた。
本の栞のように、特定のページを押さえている。
誰かがこの場所を訪れ、過去の記録の途中に目印をつけ、再び続きを読みに来るのだ。
入口のすぐ右手を見上げると、関口さんの言っていたとおり、古びて曇った姿見の鏡が斜めに設置されていた。
階段の上り口が、鏡の奥に死角なく映り込んでいる。
鏡の中に、くたびれた作業着を着て立ち尽くす、自分自身の貧相な姿が映っていた。
棚の奥の暗がりから、足音もなく一人の女性が姿を現した。
四十代半ばほどの、感情を表に出さない無表情な女性だった。
黒縁の眼鏡をかけ、両手の指先が真っ黒に黒ずんでいた。
万年筆のインクの汚れではない。
何十年ものあいだ、酸化した古い紙の繊維を素手で扱い続けてきた人間特有の手だ。
紙の酸性物質と埃が、皮膚の毛穴の奥深くまで沈着して消えなくなっているのだ。
生身の人間が長く触れ続ける物質は、必ずその肉体の組織の一部として沈着する。
——私の口腔の奥に、いつも苦く残っている、あの合成食品の金属の後味と同じように。
「……関口さんの紹介で伺いました」
私は懐から、あの活版印刷の名刺を差し出した。
女は名刺を受け取り、無言で頷いた。
夕日の光にかざして文字を確認することすらしない。
自分の親指の腹で、名刺の中央の活版印刷の深い凹みを手探りでそっと撫でただけだった。
本物の名刺であるかどうかを、活字の印刷ではなく、紙の圧力の手触りだけで識別できる職人だった。
「……何を探しているの」
低く乾いた声だった。
「二〇二七年前後。旧政府の保安省の公的記録です。できれば、当時発付された保安令状に関わる詳細な捜査文書を」
「範囲が広すぎるわね」
「被疑者あるいは研究者の名前に、『日向』という名が入っているものを探しています」
女の手が、ピタリと止まった。
ほんの、瞬きひとつの刹那だった。
だが、女の指先が微かに硬直し、それから何事もなかったかのように黒縁眼鏡のブリッジを中指で直して、棚の奥へと静かに歩き出した。
床板の軋みを避けるように、足が棚の配置を完全に記憶している歩き方だった。
「日向」という名前をこの女が知っていたのか、それとも初めて聞いたのかは、表情からは読み取れない。
だが、あの一瞬の指の硬直は、「範囲が広すぎる」という事務的な言葉の奥には、決して存在し得ない異様な緊張の証だった。
女が向かったのは、壁沿いに並ぶ通常の年代別棚ではなかった。
部屋の最奥の、黒い合板の仕切り板で厳重に目隠しされた、さらに奥の一角だった。
壁沿いの一般棚のラベルは公的な年号と省庁名だが、仕切り板の向こうの棚のラベルは、まるで異なっていた。
筆ペンで殴り書きされた、不気味な符丁。
数字とアルファベットと幾何学的な記号が組み合わされた、部外者には到底解読できない暗号ラベル。
年代順では並んでいない。
特定の「個人名」あるいは「隠蔽された重要案件」ごとに、独自に分類された秘密の棚だった。
「……すぐには出せないわね。奥の束から掘り起こすのに、かなりの手間と時間がかかるわ」
女は仕切り板の奥から戻ってきて、平然と言い放った。
「最初に、探索の手間賃の額を言っておくわよ。仮に探した結果、該当する紙が一枚も見つからなかったとしても、この手数料は一円も返金しない。見つかった場合の紙そのものの買い取り代金は、もちろんこれとは完全な別料金よ」
「……いくらですか」
「現金で、十五万」
十五万円。
港の日雇い検数の日当四千二百円で換算して、丸々三十六日ぶんの労働対価。
週に二、三日しか枠がないいまの私の生活水準なら、丸三ヶ月ぶんの全収入が、まだ見てもいない紙の手間賃だけで綺麗に消し飛ぶ計算だった。
アパートの家賃一万八千円なら、ゆうに八ヶ月以上暮らすことができる大金だ。
女は私の返答を待つこともなく、棚へ戻って別のバインダーの背表紙を整え始めた。
即答を急かす素振りすら見せない。
私の身なりと作業着を一目見ただけで、この男がそんな大金をポンと払える人間か否かを、すでに完璧に見切っている手つきだった。
「……少しだけ、考えさせてください」
その瞬間、入口右手の姿見の鏡が、微かに揺れた。
階段の下の薄暗がりに、誰かの人影が差し掛かったのだ。
女は瞬時に私の正面へ身を寄せ、その背中で仕切り板の奥の暗号棚を完全に隠蔽した。
だが、階段を上がってくる足音は聞こえなかった。
一階の作業場で、バサリと麻紐を解く乾いた音が一度だけ響いた。
女はゆっくりと元の位置に戻った。
「……明日、またいらっしゃい。探索を頼むかどうかの返事と一緒にね」
◆◆◆
階段を下りて一階へ戻ると、あの処分済スタンプの押された紙の山が、先ほどと同じ場所に積まれていた。
だが、山の上には、真新しい紙の束がひとつ増えていた。
きつく縛られていた麻紐の食い込み痕が生々しいその束は、溶解炉の投入口の方角へ向けて、無造作に放り出されていた。
私が二階で女と交渉していたわずか数分のあいだに、何者かがこの倉庫を密かに訪れ、誰にも知られたくない過去の記録を、金を払って消し去りに来たのだ。
作業台の男が、古紙から目を上げずに、ボソリと呟いた。
「おい、あんた。明日また来る気ならよ……午前中にしときな」
男はそれ以上の理由は何も語らなかった。
二階の棚の紙は、探索料だけで十五万円。
一階の土間の紙は、溶解炉で灰になるだけのゴミ。
この「紙屋」という怪しげな城は、過去を買い戻したい人間と、過去を永遠に抹消したい国家の、その冷酷な隙間の断崖絶壁に建っていた。
◆◆◆
夜、アパートの机の上で、帳面を開いた。
〈紙屋。
探索料、現金で十五万円。
保留にした。
まだ見てもいない紙の手間賃だけで、私の三ヶ月ぶんの命の値段が消える。
名前の入った紙は、年号別の棚にはなく、仕切り板の奥の暗号の棚に、個人別に隠されていた。
「日向」という名を告げた瞬間、女の手がほんの一拍だけ止まった。
あの一拍の沈黙の中に何が隠されていたのかが分かれば、十五万円という大金の意味も変わるはずだ。
明日来るなら午前にしろ、と一階の男が言った。
明日の朝、私は決断しなければならない。〉




