第14話 バグ
坂を下りきると、再開発地区の無機質な格子状の街区並びに入る。
視界の左右を巨大な灰色の壁がどこまでも塞ぎ、網膜のアイリスを持たない生身の目には、何の情報も映らない死の街だ。
私の剥き出しの瞳には、冷たいコンクリートの壁しか届かない。
その壁の向こう側で、何万人もの他人のダイモンたちが、持ち主の生身の肉体の代わりに考え、生活を自動で運行している。
大きな交差点に差しかかった。
交差点の四隅に、道路標識の柱はない。
歩行者用の信号機もない。
アスファルトの路面には、横断歩道の白線すら、とうの昔から一本も引かれていない。
物理的な線を引く必要が、この街には最初から存在しないからだ。
この一帯の交通網のすべては、街そのものを構成する巨大な知能基盤が、リアルタイムで分散計算している。
建物の壁のなかの、路面の特殊アスファルトのなかの、そして大気中を漂う目に見えない無数の計算用砂粒が、街を走る数百台の車輌の最適経路を、ミリ秒単位で瞬時に決定していく。
車輌の側には、自律した思考回路など積まれていない。
考える必要がないからだ。
街の知能が最適解を決定し、車輌のモーターはその計算結果をただ忠実に実行するだけの末端の手足にすぎない。
だからこの街では、理論上、衝突事故など絶対に起きない。
すべての車輌とインフラのあいだで計算の合意が完了してからでなければ、車輪が動かないからだ。
歩行者たちは、網膜のアイリスに緑色で投射される指示の矢印にただ従い、前も見ずに安全に道路を渡っていく。
私にはアイリスがないから、その不可視の誘導線は見えない。
自分の剥き出しの肉眼で車輪の流れを見極め、空間の隙間の距離を目測で測り、歩幅を合わせて渡る。
この街で生きるために、毎日欠かさず繰り返してきた当たり前の生存技術だ。
大型の無人配送車が一台、左手の幹線道路から交差点へ向けて滑り込んできた。
窓がひとつもない。
金属の継ぎ目がない。
人間の乗る座席も、荷物を人の手で降ろすための把手も持たない、丸みを帯びた完全な灰色の直方体が、粘りつく水の中を進む深海魚のような滑らかさで距離を詰めてくる。
私は車体の速度と角度を読み、いつもどおりにアスファルトを歩き始めた。
灰色の箱の予定経路は、私の歩く三歩前方を、右から左へと斜めに通過するはずだった。
街の巨大な交通計算が、あらかじめそう決定していた。
私の肉体は、長年の経験から、その機械の規則正しい律動を正確に読み取っていた。
読めていた。
完璧に読めていたはずのその物理法則が、交差点の真ん中で、突如として狂った。
右の手の甲が、静電気が弾けたように鋭く痺れた。
皮膚の表面を、微細な電流の熱が一度だけ横切った。
冬の乾燥した静電気ではない。
春の強い日射による皮膚の火照りでもない。
私の皮膚そのものが、空間を満たす不可視の信号を直接受信して、激しく痙攣したのだ。
配送車の走行律動が、私の鼻先数メートルの位置で、突如として別の軌道へ書き換わった。
さっきまでの安全な回避経路が消滅し、システムが別の新しい走行線を強引に立ち上げた。
その新しく生成された直線は、いま私が立っている、まさにこの座標の中心を真っ直ぐに貫いていた。
——まずい。
私の肉体のほうが、頭の思考よりも先にその殺意の物理を理解した。
頭の思考は、何が起きたのかまったく追いついていない。
だが私の足は、すでに半歩、反射的に後方へと身を引いていた。
引きながらも、なぜ自分が退いたのか、その意味が分からなかった。
靴底のゴムが、硬いアスファルトの地面を強く噛んでいた。
危険を視認してからの生体反射ではない。
もし目撃してからのパニック反射であるなら、心臓が先に早鐘を打つはずだ。
だが、私の心臓の鼓動は、不気味なほど静まり返っていた。
私の肉体は、目で見ずともあらかじめ車輌の思考を《《知って》》いて、退いたのだ。
そしてその瞬間、迫り来る灰色の箱の挙動が、目に見えて崩れた。
完璧に滑らかだった運動の軌道が、瞬きより短い一瞬、完全に推進力を失った。
床下から響いていたモーターの低い唸りが、ブツリと途切れて沈黙した。
ブレーキをかけたのではない。
車輌の頭脳へ向けて、システムから送られてくるはずの《《次の指示データが、届かなかった》》。
突如として書き換わった緊急経路の、その次の一手が、計算の空白の中に落ちて消滅したのだ。
配送車は数十センチだけ惰性の慣性で横滑りし、それから何事もなかったかのように元の平穏な流れへと復帰して、私の右側わずか数十センチを無言で通り過ぎていった。
速度は法定速度の範囲内だった。
経路のブレも、ごく僅かな乱れにすぎない。
仮に周囲に監視カメラがあったとしても、記録されている映像は「一台の配送車が歩行者の脇を普通に通過した」という日常のひとコマだけだ。
歩道のアスファルトに立ち尽くしたまま、私は走り去っていく灰色の車輪を見つめていた。
遅れて、心臓が肋骨の内側で激しく乱高下を始めた。
手の甲を走ったあの電撃のような痺れは、すでに完全に消え去っていた。
だが代わりに、右腕の前腕の骨の奥深くに、鈍く重い共鳴の余韻が残っていた。
強く打ち鳴らされた音叉の振動が、金属の骨髄の中をゆっくりと通り過ぎていったかのような、奇妙な残響。
肉体の打撲の痛みではない。
痛みであるなら、怪我として納得できる。
論理で理解できない異質な現象が、私自身の肉体の中を確かに通り抜けていったのだ。
振り返ると、夕暮れの交差点は何事もなかったかのように無機質な秩序を保って流れていた。
ほかの車輌は一台も急停止していない。
空気中を漂う計算用砂粒は、何事もなかったかのように数千台の交通流を計算し続けている。
秩序が狂い、失速を起こしたのは、私の目の前に突っ込んできたあの一台だけだった。
もし、あの瞬間の失速と、私の肉体の無意識の後退がなかったら、どうなっていただろうか。
この国の交通安全の仕組みは、誰もが知っている。
歩行者との物理的な接触が不可避であると街のシステムが判定した瞬間、車輌の外装素材は、衝突する部位だけがゴム飴のように柔らかく変形する。
人間は弾き飛ばされる。
あばら骨は一本も折れない。
血も一滴も流れない。
数分後に立ち上がり、せいぜい軽い打撲の湿布を貼って帰宅するだけだ。
この国では、車に撥ねられて劇的に死ぬことすら許されない。
人間にとって最も惨めで、かつ最も確かな悲劇の権利すら、完璧な管理システムによって奪い去られているのだ。
大怪我を負わないのであれば、それは法的には事故ですらない。
単なる「物理的な接触事象」として処理され、公的な統計データにすら載らない。
だから私が心底から恐怖したのは、車に撥ねられることそのものではなかった。
私が恐怖したのは、街の絶対的な計算経路が、私の目の前で突如として狂い咲くように書き換わったことだ。
そして何より——そのシステムの異常な書き換えを、私の生身の肉体が、何ミリ秒も前にあらかじめ読み取ってしまったことだ。
街が推論し、車輌がそれを実行する。
すべての合意が完了して初めて、車輪は動く。
計算の失速が起きるのは、システム全体の中で計算の合意が成立しなかったときだけだ。
都市全体の膨大な車輌を完璧に制御する国家の超知能が、あの一瞬、私の肉体を前にして、演算の答えを出すことができなかったのだ。
なぜ、答えを出せなかったのか。
恐ろしい答えが、脳裏に閃いてしまった。
あの灰色の箱が私に迫ってきたとき、私の肉体は、その機械の運動の律動を——明石の部屋の方眼紙に描かれていた、あの薬缶の沸騰直前のような生きた揺らぎを——自分の神経の内側から直接拾い上げていたのだ。
静まり返った夜に、自分の心臓の脈拍を耳奥で直接聞くように。
私自身の内側のリズムが、街のインフラの側からそのまま木霊となって返ってきたかのように。
私の手の甲の皮膚は、確かにそれを知覚していた。
あの鋭い痺れは、私という生身の存在と、国家の巨大な計算網が、直接ショートして触れ合った接点の火花だったのだ。
私がその律動を身体で受信したその瞬間に、街の計算処理がフリーズした。
私が意図して超能力のように止めたのではない。
私が機械の律動を肉体で「読めてしまう」ということと、機械の計算が「狂って止まってしまう」ということは、同じひとつの不可分な事象の、表と裏にすぎない。
国家の計算網の深淵に、私という人間とまったく同じ思考の種が眠っている。
同じひとつの存在が、同じひとつの空間に二重に存在してしまったとき、閉じた計算世界は論理矛盾を起こし、解を失ってクラッシュする。
私は、この完璧に無菌化された管理都市の計算にとって——
そこで、私は思考を無理やり凍結させた。
考えるのをやめても、冷酷な概念は、黒鉛の文字のように網膜にこびりついて離れなかった。
《《私は、この街の計算にとっての、致命的なバグだ。》》
◆◆◆
アパートの四畳半に帰り着いた。
暗い台所で、無言のまま粗末な夕飯の支度をした。
小さな冷蔵庫の棚には、安価なフェイク・プロテインのアルミパックが二つと、白地産の闇バイオマスから精製された粗悪な合成米が少しだけ残っていた。
プロテインの塊を皿にあけ、電子レンジのない小さな鍋で合成米を温めた。
一口目を噛んだ瞬間、人工的な強い塩気の底から、あの刺すような金属の後味がじわりと舌の上に滲み出てきた。
いつも口にしている、貧しい食卓の味だ。
だが今夜の金属味は、普段のそれよりも明らかに濃く、鋭かった。
奥歯の根元から冷たい唾液がどっと湧き出し、舌の裏側に不快に張りついたまま、なかなか消え去ろうとしない。
交差点で手の甲を走ったあの電流の痺れが引いたあとに、口腔の奥に、まったく同じ周波数の金属の後味がいつまでも残っている。
私の肉体の表面で起きている電気的な異常と、二十四年間、この貧しい食事によって私の細胞組織の内側に蓄積され続けてきた微細なナノ回路の残骸が、完全に同じ方角を向いて共鳴している。
そう直感して、私は箸を卓の上に置いた。
明石にこの事象を報告することは、思いとどまった。
単なる偶然の車輌の誤作動かもしれない。
車が至近距離をすり抜けたのは事実だが、怪我ひとつ負わなかったのだから、大騒ぎするような事象ではない。
——いや、それは自分に対する卑怯な嘘だった。
あの交差点での生々しい知覚のショートを他人に言葉で打ち明けてしまえば、自分が人間ではない何か恐ろしい異形の存在へと、引き返せない速度で変貌してしまうような恐怖があったのだ。
近づいていくのではない。
私の肉体の奥底に二十四年間眠っていた「何か」が、皮膚を突き破って外へ這い出してくる気配がした。
手の甲の痺れは、治まったのではなく、皮膚の奥深くに再び身を潜めただけだ。
私の神経の網の目の下に、あのバグの種が確かに呼吸している。
次にそれが目を覚ますのがいつなのか、私には分からない。
国家検定機構〈神盾〉に十六年間、おまえはAIの生成物だと宣告され続けて、それでも私は、自分は心を持った生身の人間なのだと信じてきた。
信じていたかった。
だが、あの配送車の一瞬の迷いと失速の理由を、自分の肉体の共鳴として完全に理解してしまったあの瞬間から、その十六年間の信念の足元が、音を立てて崩れ始めていた。
軋む机の上で、帳面を開いた。
ペンを持とうとしたが、鉛筆を握りしめた指の先端が、細かく痙攣するように震えて止まらなかった。
〈車が寄ってきた〉
私は手記に、事実を極限まで矮小化してそう一行だけ書き記した。
街の計算に致命的なエラーが走った、とは書けなかった。
私は、この世界のバグだ、とも書けなかった。
誰の目にも触れない、自分だけの孤独な帳面にすら、その真実を書き記す勇気はなかった。
鉛筆を置き、暗闇の中で天井を見上げた。
雨漏りの染みは、八つ。
何ひとつ増えず、何ひとつ減らない。
世界の崩壊の淵にあって、その無機質な数字の変わらなさだけが、今夜の私の狂気を辛うじて繋ぎ止めていた。




