第15話 減っていく枠
仕事の割り振りが目に見えて減り始めたのは、その週の初めからだった。
月曜の朝、帳場の重い引き戸を開けると、削られた鉛筆が紙を擦るサクサクとした硬い音が土間に響いていた。
関口さんが帳面を広げ、余白に小さな数字を横一列に並べているところだった。
「物部、今日は空きだ」
関口さんの視線は、台帳の数字に落ちたまま上がらなかった。
それから老人は、鉛筆の先で紙を軽く叩き、数字の列を指し示した。
四月の最終週から五月の第三週にかけての、私に割り振られた就労枠の推移。
五日、四日、三日、三日、二日、二日。
そのすぐ下に、同僚の永田さんの枠が並んでいた。
五日、五日、五日、四日、五日、五日。
「港の荷は入ってる。船の入港数も先週よりむしろ多い。なのにおまえさんの枠だけが、週を追うごとに綺麗に削られてる」
「……ほかの民間業者に、仕事が回っているんですか」
「そういう話じゃねえ」
関口さんはパタンと台帳を閉じた。
鉛筆を耳の後ろの白髪に挟み、そこで初めて、厳しい目をこちらに向けた。
「中央の配分計算のアルゴリズムに、おまえさんの名前が何かのフラグで引っかかってる。そういう嫌な匂いだ」
私は何も言い返せなかった。
あの交差点での配送車の失速。
街の計算網と私の神経がショートした、あの不可視のバグの痕跡が、中央のログの中で不気味に波紋を広げているのだろうか。
「……裏の倉庫の履歴証書、全部整理しとけ。正規の日当は出せんが、昼の弁当代くらいは帳場から見てやる」
関口さんは金庫を開けず、自分の上着の内ポケットから使い古した革財布を取り出し、百円玉を三枚、窓口の木製カウンターに置いた。
帳場の公金ではなく、老人自身のポケットマネーだった。
こういう不器用な情があるからこそ、私はこの過酷な吹き溜まりの現場を離れられずにいるのだ。
◆◆◆
履歴証書は、帳場の裏手にある薄暗い三畳の物置に天井まで積み上げられていた。
非認証枠で泥にまみれて働いた底辺の人間たちの、日ごとの実就労を物理的に証明する唯一の公的書類だ。
一年ごとに麻紐で十字に括られて保管されているのだが、その古い紐をほどき、日付順に整頓して括り直すのが今日の私の作業だった。
紐が経年劣化で切れると、束が崩れて別の年度の紙と混ざってしまう。
過去十年ぶんの証書を床に広げ、埃を払いながら一枚ずつ日付順に並べ直していく。
藁半紙は経年変化で端から茶色く変色していた。
指先で紙をめくると、古い年代のものほど、カサカサと乾いた骨のような音を立てた。
七年前の束の底に、四十枚ほどのひとつの綴りがあった。
同じ作業員の手書きの署名ばかりが、几帳面に並んでいる。
半年間で四十枚。
この港で汗を流して働いた日数のぶんだけ、確かに紙が存在している。
その先をめくっていった。
だが、翌年の束のどこを探しても、その男の署名は一枚も見当たらなかった。
病気で死んだのか、街を出て流れていったのか、それとも奇跡的に人格等級が回復したのか。
紙の上には、その理由を語る記述はどこにもない。
ただ分かるのは、ある年の途中を境にして、その人間の名前を記した紙が、世界から二度と発行されなくなったという冷酷な事実だけだ。
唐突に消滅したのではなかった。
最後の三ヶ月の記録を見ると、月に三枚、二枚、一枚と、まるで命の砂時計が落ちるように割り振りが削られ、そしてゼロになっていた。
私は自分の名前が書かれた今年の束を引き寄せ、同じように直近の枚数を確認した。
先月までは、月に十八枚あった。
今月は、すでに月の半ばを過ぎているのに、まだ七枚しかなかった。
麻紐を強く締め直し、元の木棚の奥へ戻した。
戻す瞬間、ずっしりとした書類の重みが、両腕の筋肉に残った。
紙は一枚ずつなら羽のように軽い。
だが、生身の人間の一年ぶんの生存の証拠を束ねると、片手では持ち上がらないほどの重さになる。
◆◆◆
作業は昼前に終わった。
事務所を出て、売店の前を通りかかった。
ガラスケースの中の売店弁当の値札が目に飛び込んでくる。
二百八十円。
普段なら迷わず買っていた弁当だが、仕事が二日に一度のペースに落ち込むと、この二百八十円という出費が、胃の腑に鉛のように重くのしかかる。
買うのをやめた。
コンテナの冷たい日陰に腰を下ろし、ポケットから百二十円のフェイク・プロテインのパックを取り出して銀紙を剥いた。
味は薄っぺらく、噛み締めると合成繊維のカスが奥歯の隙間に不快に残る。
「……それ、見るからにまずそうね」
澄んだ声が頭上から降ってきた。
黄詩文だった。
三つ編みの髪を肩の前に垂らし、油で汚れた作業着のまま、手に小さな茶色い紙袋を提げている。
「売店の裏手ね、十二時を五分過ぎると、前日の残りものの半額シールが貼られるのよ。でも、焦って早く行っちゃ駄目よ」
詩文は私のすぐ隣、肩が触れそうな距離に腰を下ろし、紙袋からプラスチックの容器を二つ取り出した。
「早い時間に出される半額品は、当日の朝に作った揚げ物が多いの。揚げ物は時間が経つと油が寝て胸焼けするから駄目。狙うべきは前日の煮物よ。一晩じっくり寝かせた煮物だけは、中まで味が芯まで染み込んでいて、作りたてよりずっと美味しいんだから」
切り干し大根の煮物と、白米のパックだった。
詩文はそのうちのひと組を、私の膝の上にコトリと乗せた。
「……買いすぎちゃって、余ったのよ」
余っているはずがなかった。
最初から二人ぶん、きっちり計算して買ってきた量だった。
私は何も余計なことは言わず、割り箸を割って受け取った。
切り干し大根を口に含むと、最初に乾物特有のしっかりした歯応えがあり、噛むほどに甘辛い出汁の旨味がじゅわりと口いっぱいに広がった。
煮汁が染み込んだ冷たい白米が、たまらなく甘く感じられた。
「……すごく、おいしいです」
「百四十円よ。あなたのその不味そうなプロテインよりたった二十円高いだけだけど、胃袋に残る満足感は三倍以上あるわ」
海からの冷たい風が、巨大なコンテナの隙間をヒュウヒュウと鳴らしていた。
食べ終えて、二人のあいだに穏やかな沈黙が流れた。
詩文の視線が、私の作業着の膝の上に落ちていた。
午前中に整理していた、私の自筆の伝票の控えが数枚、無造作に置かれている。
「……これ、見てもいい?」
私が頷く間もなく、詩文の細い指先が伝票をそっと引き寄せていた。
彼女の人差し指が、私の署名の上を、触れそうで触れない数ミリの隙間を保ちながら、筆跡をなぞるように滑っていく。
直接は触れない。
他人の肉筆に生身の指を直接触れると、自分の指紋や体温が移ってしまう気がするのだと、以前彼女が言っていた。
一枚目。二枚目。
詩文は真剣な眼差しで、無言で指を滑らせていく。
そして三枚目の伝票に達した瞬間、彼女の指先がピタリと止まった。
日付を確認した。
あの交差点で、配送車が失速し、私の手の甲が痺れた——まさにあの日の翌朝の伝票だった。
「……この日の字」
詩文は伝票を顔の高さまで持ち上げ、逆光に透かすようにして凝視した。
「すべての点と払いに、異常なほどの力が入りすぎているわ。指の神経の中に、何か恐ろしい熱が残ったまま書いたような字……」
胃の底が、冷たく強く縮み上がった。
彼女は何も知らない。
自動配送車の暴走も、手の甲を貫いた電流のことも、私がこの街のバグであるという戦慄も、何ひとつ話していない。
それなのに、彼女はこの紙の上のわずかな筆跡の乱れだけを読み取って、あの日の異常を正確に言い当ててみせたのだ。
詩文は四枚目、五枚目の伝票をコンテナの鉄板の上に並べた。
日付の順序に従って、綺麗に。
「ここからここまでの三日間で、あなたの書く字の芯が、完全に変容しているわ」
詩文の喋る速度が、興奮を帯びて微かに速くなっていた。
「でも、崩れていないのよ。普通なら、心身に大きなショックを受ければ、筆跡の形そのものが乱れて崩れるはずなのに。あなたのは、中身の重力だけが激変して、外側の線の骨格が必死に自分を保ち続けている……」
いつもの落ち着いたアルトの声が、半音高く上ずっていた。
原稿を読む編集者としての冷徹な距離感が、彼女の瞳から完全に消え去っていた。
「こんな人間の筆跡……わたし、今までの人生で一度も見たことがないわ」
詩文の黒い瞳が、獲物を見つめるように潤んでいた。
「一体どうやって書いているの? 何かを必死に意識して抑え込んでいるの? それとも、あなたの体の中で——」
不意に、詩文の手が伸びてきた。
彼女の細く冷たい指先が、私の右手を躊躇なく掴み、手のひらを上に向けて強引に裏返した。
紙には決して触れようとしなかった彼女の指が、私の剥き出しの皮膚には、直に、生々しく触れていた。
彼女の親指の腹が、私の中指の第一関節の横の、硬くなった皮膚をなぞる。
長年、毎晩手記を書き続けてきたことで出来上がった、分厚いペンだこだ。
詩文は自分の右手を持ってきて、私の手のひらのすぐ隣にピタリと並べた。
彼女の中指のまったく同じ場所にも、同じ形をした、少しだけ小ぶりなペンだこが白く盛り上がっていた。
「……同じだわ」
詩文の声から早口の興奮が消え、囁くような、低く熱い吐息に変わった。
二人の距離が、一気にゼロになった。
「まったく同じ場所。まったく同じ、ペンの握り方をしてる……」
詩文の指先が、私のペンだこを愛おしむように、じっくりと擦り合わせていた。
驚くほど冷たい指先だった。
だが、その冷たさの奥から、作業着と潮風の匂いを突き抜けて、彼女の皮膚自身の甘い体温と石鹸の香りが、生々しく私の鼻腔を刺した。
詩文はハッと我に返ったように、弾かれたように私の手を離した。
そして、自分の手のひらを見つめ、自分が無意識にやってしまった大胆な行為の重さに気づいたように、白い首筋までカッと赤く染め上げた。
「……ご、ごめんなさい。つい、昔の編集者の職業病が出ちゃったのよ。気になる原稿を見つけると、どうしても著者の指の骨まで確認したくなっちゃうの」
編集者の癖などではないことは、明白だった。
彼女自身も、それが苦しい照れ隠しの言い訳にすぎないことを自覚している顔だった。
午後の始業を告げる、港の重いサイレンが遠くで鳴り響いた。
詩文は慌てて立ち上がり、作業着の膝についた埃を手でパンパンと払った。
そして三歩ほど早足で歩き出してから、くるりと振り返った。
「……物部さん」
「はい」
「わたし、あなたの書く字……本当に好きよ」
それだけを言い残すと、彼女は二度と振り返らず、長い三つ編みを背中で激しく揺らしながら、逃げるように倉庫街の奥へ駆けていってしまった。
私はコンテナの影に座り込んだまま、自分の右手をじっと見つめていた。
彼女の指先が触れていた中指の関節が、じわりと熱く脈打っていた。
あんなに冷たい指だったのに、残された皮膚の痕跡だけが、いつまでも温かく火照っていた。
◆◆◆
夜、アパートの四畳半に戻り、軋む机の上で帳面を開いた。
〈就労枠が減っている。港の五人のなかで、私の枠だけが削られている。
帳場の裏の三畳で、過去の履歴証書の束を解いた。かつてこの現場にいたある男の名前が、月に三枚、二枚、一枚と減り、やがて翌年の記録から永遠に消滅していた。
排除には、残酷な順序がある。
仕事が一日減るということの恐怖と、昼の二百八十円の弁当を諦める惨めさが、まったく同じ重さの天秤であることを知った。
今日、詩文が昼の惣菜を持ってきてくれた。百四十円の半額の切り干し大根。余ったからと言っていたが、最初から二人ぶんだった。
伝票の署名を読まれた。私の知らない私の指の異変を、彼女だけが紙の上から正確に言い当てた。
何があったのかは追及されなかった。訊かないまま、私の言葉の骨格だけを真っ直ぐに抱きとめてくれた。
中指のペンだこを重ね合わせた。
彼女の指は冷たかったが、触れ合った痕だけが、いまも熱い。
字が好きだ、と言われた。
十六年間、私の出力するすべての言葉は、無機質な機械のゴミだと判定され続けてきた。
だが今日、この世界でたった一人だけ、私の言葉が好きだと言ってくれた人間がいた。〉
天井を見上げ、染みを数えた。
八つ。
何ひとつ変わらない。
明日は、まだ一日だけ就労枠が残っている。
社会の枠は、確実に狭まり、消えかけている。
だが今日、私の冷え切った人生のなかに、確かなひとつの体温が増えた。




