第13話 迷い方
三日後に再び訪れると、玄関から続く紙の獣道の脇に、冷え切った湯呑みが四つ並んでいた。
四つとも半分ほど茶が残ったままで、表面には埃の混じった白く濁った膜が張っている。
台所にはまともに火を使った形跡がなく、流しの縁に、袋の口が開いたままカチカチに硬くなった食パンが放置されていた。
袋の口を留めていた小さなビニール針金が、ねじ曲げられた形のまま板の間に落ちている。
明石はこの三日間の昼も夜も、この異様な廃屋の中で、あの三枚の紙の実験結果のことだけを考え続けていたらしい。
「——条件を逆にするぞ」
狭い階段を上がる途中で、明石は背中を向けたまま早口で喋った。
「前回は、君が自分で書いても赤、君が口で喋って俺が書き取っても赤だった。それなら今度は完全な逆をやる。俺が口で文章を喋り、君がそれを鉛筆で書き写す」
二階の「棺桶」の部屋の空気は、三日前と寸分違わぬ乾き切った匂いを漂わせていた。
明石が口頭で語り、私がそれを机の上の藁半紙に書き取った。
課題の題は前回とまったく同じ、〈信頼とは何か〉。
明石の脳内で選ばれた言葉を、私の生身の手が鉛筆で紙の上に定着させていく。
一階の端末に通し、判定。
ローラーが紙を吸い込み、三秒。
吐き出された紙の端に、鮮やかな緑の印字。
〈陰性——人格認証〉
「……予想どおりだ」
と明石が呟いた。
だが、その表情に勝利感や晴れやかさはどこにもなかった。
「言葉を選んだのが俺であるなら、君の手で書こうが何しようが、判定は『人間(陰性)』になる。言葉を選んだのが君であるなら、俺の手で書き取ろうが、判定は『非人間(陽性)』になる。つまり——」
「私の『手』には、最初から何の罪もなかったんですね」
「そうだ。書く肉体の側には、判定を狂わせる要素は何ひとつ存在しない。問題は、脳が言葉を選び取る思考のプロセスそのものだ」
明石は脳波計の目盛りダイヤルに手をかけ、意味もなくカチカチと半回転させ、再び元の位置に戻した。
「もっと冷酷に事実を言おう。君の脳が言葉を選び出すときの神経活動のパターンが、神盾の判定アルゴリズムから見ると、高度なAIが膨大なパラメータから出力を生成するときの波形と、完全に同型に見えているんだ」
明石はそこで一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「なぜ君の頭がそういう異様な動き方をするのかは、現代の医学でも統計学でも説明がつかない。生まれつきの脳の変異か、胎児期に何らかの化学物質に曝されたか、それとも幼少期の脳神経の手術の痕跡か。……どれを仮説に置いても、決定打にはならない」
生まれつき。
あるいは、手術の痕跡。
後頭部の、髪の生えない五センチほどの冷たい傷痕を、明石の言葉が見えない刃のように外側からそっとなぞった。
毎晩風呂で頭を洗うたびに、私の指先が無意識に触れてしまう場所だ。
気のせいだ、と私は心の中で強く念じ、その連想を無理やり断ち切った。
◆◆◆
「これを見てくれ」
明石は青白いモニタの画面を静かに切り替えた。
画面の上に、心電図の脈拍に似た、複雑で細やかな波形が映し出された。
横軸が経過時間で、縦軸はシステム内部の計算活性の密度を示しているのだという。
国家の知能〈思兼〉の基幹システムが、ひとつの巨大な推論処理を実行するあいだの、内部の動的な挙動を可視化したものだ。
明石は棚の奥から分厚い方眼紙を取り出し、作業机の端に広げた。
短くなった鉛筆を握り、画面の数値目盛りを丹念に読み取りながら、方眼のマス目玉ひとつひとつに、黒鉛の点を正確に打っていく。
打たれた無数の点を、定規を使わずに滑らかな線で繋ぎ合わせていく。
「……画面をカメラで撮影して記録しないんですか」
「電子機器で撮影したデータは、外部の電波や遠隔のパッチひとつで痕跡もなく消去できる」
明石は方眼紙から目を離さずに、鉛筆を走らせながら即答した。
「紙の上に手で写し取った物理的な数字だけが、電子の世界が消されたあとも、絶対に改竄されずに残るんだ」
十分ほどの間、密閉された部屋の中に、鉛筆が紙を引っ掻く乾いた音だけが響き続けた。
明石が手書きで写し取った波形は、電子モニタの冷たい直線よりも、角がわずかに丸みを帯びていた。
丸みを帯びているぶん、まるで生き物の生々しい鼓動に似ていた。
一見すると規則正しいリズムだが、決して単純な反復ではない。
山となるピークの高さがわずかに揺らぎ、谷となる周期の間隔がわずかに伸び縮みしている。
湯を沸かしている古い鉄の薬缶が、沸騰して噴き出す少し手前で、底から微かに立て始める微細な金属音に似ていた。
同じ種類の音が連続して鳴っているのに、二度と寸分違わぬ間隔では鳴らない、混沌とした揺らぎ。
「思兼の知能は、純粋なシリコン半導体だけで動いているんじゃない。生体組織と半導体を融合させた『混成基質』で稼働している。だから処理の過程に、生体特有の固有の《《律動》》が生じるんだ。機械が出力を吐き出す直前の内部プロセスに、この独特の揺らぎが深く刻み込まれている」
明石は眉根を寄せた。
「思兼から派生したどんな下位モデルであっても、この根っこの律動だけは完全に共通している。——なぜ同じ律動が遺伝しているのか、国家の公式仕様書には一行も書かれていないがね」
明石はモニタの画面を再び切り替えた。
「そして、次にこれだ。君の脳波のデータだ。前回、この部屋の脳波計で記録した実測値だ」
画面に、別の緑色の波形が表示された。
生身の人間の脳波だ。
形は、当然ながら機械の波形とは異なっている。
異なっているはずだった。
「……重ねるぞ」
明石がキーを叩くと、二つの波形が半透明になって画面上でひとつに重なり合った。
完全な一致ではなかった。
だが、ある特定の周波数帯域において、二つの波形の揺らぎが、まったく同じ位相で、まったく同じ向きに傾斜していた。
機械の内側の活性がグンと跳ね上がるその瞬間、私の生身の脳波もまた、同じタイミングで呼応するように跳ね上がっている。
同じひとつの複雑な楽曲を、まったく別々の楽器を持った二人の演奏者が、互いの姿も見えない別々の密室で、完璧な呼吸で同時に演奏している。
息が止まるような、不気味な重なり方だった。
「……ただの、偶然の一致じゃないんですか」
明石は画面を見つめたまま、机の板を指の関節でコンコンと二度叩いた。
「偶然でこの波形の共鳴が起きる確率は、君が全生涯で陽性判定を出し続ける確率よりも、さらに天文学的に低い」
私には、その数式が意味する絶望の深さが完全には理解できなかった。
ただ理解できたのは、明石が画面のガラスに顔を異様なほど近づけすぎていることだった。
鼻先とモニタの距離が、十センチもない。
データに見入っているのではない。
このデータが何かの計器の故障であってほしくて、必死で測定のミスを探し求めている男の、痛々しい横顔だった。
「……共鳴だ」
と明石が呻くように言った。
自分が手書きした方眼紙を持ち上げ、モニタの光に透かして重ね合わせた。
「呼び方は仮のものでいい。いま目の前にあるのは、機械の思考の律動と、君の脳の律動が、完全に同じ波で揺れているという、動かしようのない物理的な事実だけだ」
◆◆◆
明石の家を出た。
春の日はとっくに沈み、丘の上の坂道から、見下ろす旧市街のくすんだ灯りの海が見えた。
さっき見せられた、重なり合う二つの波形の残像が、網膜の裏から離れなかった。
——言葉を選ぶときの、迷い方が同じなんだ。
明石はそう言った。
私が文章を書くとき、頭のなかで言葉を手探りで選び出すその迷いの道筋が、国家の巨大な知能機械の内側の迷い方と、完全に同じ形をしているのだと。
迷い方が同じであるなら、選び取る結論もまた、同じになってしまうのか。
同じように迷い、同じ言葉に着地するのだとしたら、私という生身の肉体と、あの冷たい機械のあいだに、一体どんな違いがあるというのか。
決定的な違いはあるはずだ。
人間として生きている以上、そう信じたかった。
私の足は、迷うことなく暗い坂道を下っていた。
だが、迷っていたのは足先ではなく、もっと深い、私の魂の奥底のほうだった。




