第12話 銭湯の湯気
三日後にまた来てくれ、と明石は薄暗い坂の上で言った。
三日あれば、あの異常な部屋の壁を埋め尽くす解析の紙は、さらに倍の量へと増殖しているだろう。
だが私のほうには、与えられたその三日間をどう過ごせばいいのか、何の考えも浮かばなかった。
アパートへ直帰する気にはなれず、重い足は自然と旧市街の銭湯へと向かっていた。
四畳半の部屋には、軋む木の机があり、あの帳面があり、ナイフで削った鉛筆がある。
今夜ばかりは、自分の手で文章を書くという行為そのものが、底知れず恐ろしかった。
◆◆◆
銭湯は、旧市街の路地に昔ながらの姿で二軒だけ残っている。
私が行くのは駅寄りの路地にある、大正時代から続く古いタイル張りのほうだ。
番台の腰の曲がった老婦人に四百円の現金を直接手渡し、脱衣籠を受け取る。
ここでは国家の人格証明など一切要求されない。
衣服を脱ぎ捨てた剥き出しの生身の人間に、等級の優劣など存在しないからだ。
脱衣場の床は、何十年もの濡れた足の摩擦で板目が深く減り、足の裏に乾いた杉の木の繊維が心地よく立っていた。
重い引き戸を開けて中に入ると、立ち上る濃密な湯気で高い天井の梁すら見えなかった。
石鹸の清潔な泡の匂いと、熱せられた井戸水の独特の鉄分を含んだ蒸気が、肺の奥まで温かく満たしていく。
湯船に体を沈めると、凍りついていた筋肉と関節のほうが、頭の思考より先にふわりと緩んだ。
だが、頭の芯の冷たさは、まだ消えなかった。
かなり熱い湯だ。
肩から下の白い皮膚が、遅れてじわりと鮮やかな赤に染まっていくのが、白濁した湯気の向こうに見えた。
天井の青いタイルに冷えた結露が溜まり、ときどき、ひと粒の大きな水滴が静かな湯面にピチャリと落ちる。
水滴の落ちた場所から同心円の波紋が小さく広がり、壁に当たって消えていく。
洗い場の隅で体を洗っている老人が、黄色い湯桶の湯を無言で肩に掛ける水音だけが、広い浴室に響いていた。
熱い湯の温度が皮膚の表面温度を完全に追い越し、血管が拡張したあたりで、ようやく指先まで温かい血が巡り始めた。
今日、あの棺桶の部屋の中で、三枚の紙が冷酷な赤に染まった。
最後の一枚は、私の指が一切触れていない、明石自身の肉筆の紙だった。
その一枚の残酷な意味を反芻するたびに、湯船の中で、私の右手の指先が無意識にぎゅっと縮こまった。
◆◆◆
銭湯の外へ出ると、春の夜の冷たい空気が、火照った肌にチクチクと針のように刺さった。
熱い湯で完全に開ききった無数の毛穴へ、旧市街の湿った夜風が容赦なく入り込んでくる。
冷たくて震えるのではない。
体の芯にあった熱が、外気に向かって急速に引き抜かれていくような、奇妙な喪失感だった。
やはり、まだ誰もいない部屋へ帰りたくはなかった。
私の足は、吸い寄せられるように一軒の古い居酒屋へ向かった。
旧市街の片隅に唯一残っている、電子網を完全に遮断した現金払いの縄のれんの店だ。
ガラリと木製の引き戸を開けると、薄暗いカウンターのいちばん端の席に、見覚えのある細い背中があった。
黄詩文だった。
彼女は背中を向けたまま、振り返りもせずに静かに言った。
「あ。物部さん」
「……なぜ、振り返りもせずに私だと分かったんですか」
「引き戸の開け方よ。あなたはいつも右手で、木枠のかなり下のほうを静かに引くでしょう。ほかの大雑把な男の人たちは、みんな真ん中の取っ手を持って乱暴に開けるもの」
詩文は悪戯っぽく唇の端を緩め、グラスのビールを傾けた。
私は彼女から二席だけ間を空けて、丸椅子に腰を下ろした。
誰にも測られていない、手探りの距離だ。
二席空けるのが男としての適切な礼儀だったのか、それとも不自然な遠慮だったのかは、座ってからも分からなかった。
奥から無口な店主が出てきて、何も注文を訊かずに、熱燗を一合徳利と冷や奴の小鉢を私の前にコトリと置いていった。
徳利の口から、温められた純米酒の甘く芳醇な香りが立ち上る。
私はいつもこの組み合わせだ。
記憶されている。
冷たいダイモンのデータベースによってではなく、生身の人間の記憶によって。
冷や奴の上には、削りたての鰹節が山盛りに載っていた。
薄く透き通るように削られた、本物の鰹節だ。
工場で作られた合成タンパク質の味付けフレークではない。
天日で干し固められた本物の魚を、職人が鋼の刃物で手で削り出したものだ。
現金決済でなければ手に入らない、この街の貴重な贅沢のひとつだった。
八十円の追加小銭を、店主は黙って皿に乗せ、客もその価値を知って黙って支払う。
茶色い削り節が、冷たい豆腐の上で、微かな湯気と大豆の湿気を受けて、生き物のように端から小さく丸まっていった。
詩文は手元の小さなグラスで、黄金色のビールをゆっくりと喉に流し込んでいた。
飲むときの彼女の姿勢は、かつて文芸誌の原稿を真剣に査読していたときの癖なのだろう、背筋をわずかに前傾させ、グラスの向こうの空間をじっと見据えている。
詩文はグラスを置き、私の顔を横からじっと見つめてきた。
黒く澄んだ瞳が、私の濡れた前髪から首筋、そして卓の上に置かれた右手へと、舐めるように静かに移動する。
「……今日は、顔つきが違うわね」
「どう違いますか」
「うまく言葉にできないけれど。でも、いつもと確実に違うわ」
カウンターの奥で、店主が骨董品のような真空管ラジオのダイヤルを目盛りを合わせて回していた。
砂嵐の混じった古いジャズの音楽が、小さな店内を心地よく埋めていく。
隣のテーブル席には、仕立てのいいスーツを着た会社員風の男が一人で座り、カウンターに無造作に現金を置いて酒を飲んでいた。
おそらく、普段は高い人格等級を持つT1階級の人間だろう。
ダイモンの行動ログに記録されない後ろ暗い酒を求めて、夜な夜なこういう旧市街の吹き溜まりに紛れ込んでくるのだ。
同じ一杯の日本酒が、あの男にとってはスリルに満ちた秘密の冒険であり、私たちにとっては生きるための日常そのものだった。
「昼間の仕事……何かあったの?」
詩文が琥珀色のグラスを指先で弄びながら、探るように訊いてきた。
「いえ……ただの書類の整理でした」
「嘘ね」
「……嘘です」
詩文はふっと喉の奥で小さく笑い、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
白い喉仏が一度だけ艶めかしく上下し、上気した頬の赤みが、薄暗い裸電球の光の中で際立って見えた。
私は徳利を傾け、自分の小さなお猪口に酒を静かに注いだ。
トクトクと酒の落ちる澄んだ音が、ラジオのノイズの隙間に落ちていく。
嘘を「嘘だ」と互いに生身の言葉で言い合える相手がこの世界にいることが、今夜の張り詰めた神経には、たまらなくありがたかった。
「……内容は、訊かないんですか」
「訊かないわよ。話したくなったら、自分から話す人でしょう、あなたは」
そう優しく突き放されると、私はすべてを彼女に打ち明けたい衝動に駆られた。
あの電磁遮蔽の棺桶の部屋のこと。
私が口頭で喋っただけの文章を、他人の手で書き写しても、機械は容赦なく「非人間」の赤を突きつけてきたこと。
だが、言葉を飲み込んだ。
すべてを打ち明ければ、目の前のこの聡明な女性にすら、あの忌まわしい「第四種の顔」をさせてしまうかもしれないからだ。
何も見なかったことにし、関わりを恐れて目を逸らす顔。
十六年間、この国のすべての人間から向けられ続けてきた、最も残酷な拒絶の表情だ。
この詩文にだけは、絶対にあの顔をさせたくなかった。
二合目の徳利を頼もうか一瞬迷ったが、やめた。
明日の朝四時半には、また埠頭の寒風の中でコンテナを検めなければならない。
「……そろそろ、帰ります」
詩文は空になったグラスの底にへばりつく白い泡を、じっと見つめていた。
そして、細く手入れされた人差し指の腹で、グラスの細い脚をコツンと一度だけ、名残惜しそうに叩いた。
「気をつけて帰ってね」
居酒屋の木製引き戸を閉める間際、私は振り返って店の中をガラス越しにちらりと盗み見た。
詩文は空のグラスを両手で包み込むように抱え、潤んだ瞳を伏せて、一人で何かを呟いていた。
滑らかな、だが切迫した響きを持つ広東語だった。
その言葉の本当の意味を、当時の私には知る術がなかった。
◆◆◆
アパートの四畳半に戻り、冷たい木の机の前に座った。
古い引き出しから帳面を取り出し、鉛筆をナイフでゆっくりと削った。
削られた杉の木の芳香が、銭湯上がりの湿った鼻腔にまっすぐに入り込んでくる。
しばらくの間、私は真っ白な紙の繊維をじっと見つめていた。
やがて、迷いを断ち切るように鉛筆を走らせた。
〈棺桶の中で三つの文章を書いた。
三つとも、すべて赤だった。
私の声で渡し、他人の手で書き写された言葉ですら、赤だった。
それでも私は、この手から鉛筆を置かない。
鉛筆を捨てない理由は、自分でも分からない。
だが、分からないという曖昧さだけが、たぶん、この無機質な世界の中で、人間の側に残された最後の領域なのだ。〉
書き終えて、鉛筆を静かに置いた。
暗闇の中で天井を見上げ、染みを数えた。
八つ。
何ひとつ変わらない。
私の髪の先は、まだ銭湯の湯気でわずかに湿っていた。
湯気そのものは夜風の中でとっくに掻き消えていたが、肌の奥に染み込んだ生々しい熱の余韻だけが、いつまでも脈打っていた。




