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黄金の泉  作者: 夜空
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バルトロメウス・ヴァレンタイン

 胃に収まった白パンは、確かに私の血肉となった。だが、懐の金貨は依然として「使えない金属」のままだ。

 調査にはお金がいる。足代、協力者へのチップなどかなりのお金が必要になる。最低でも二十枚以上の銅貨はほしい。

「……まずは、この金貨をなんとかする必要があるわね」

 私は事務所を出ると、霧に煙る裏通りのさらに奥、豚の屠殺場に近い一角にある「両替商」を訪ねた。

 看板などない。ただ、入り口の横に三つの真鍮の球がぶら下がっているだけの、古びた建物だ。中に入ると、酸っぱい薬品の臭いと、金属を削る不快な音が私を迎えた。

「両替を。……一番高い手数料でいいわ。その代わり、何も見なかったことにしなさい」

 私がカウンターの汚れた布の上に、金貨を一枚置いた。

 カウンターの向こう側で、目を保護するゴーグルをかけた男が動きを止めた。彼は金貨を手に取ると、天秤にかけるでもなく、その表面を鋭い爪でなぞった。

「……手数料は四割だ。いや、あんたの顔を見るのは初めてだな。五割いただくよ、お嬢さん。あんたの素性を忘れるための『忘却代』としてな」

 五割。金貨の価値が、一瞬で半分になる。

 私は奥歯を噛み締め、承諾の代わりに短く顎を引いた。

 男は手際よく、手垢で黒ずんだ銀貨とずっしりと重い大量の銅貨をカウンターに置いた。

 懐でジャラジャラと鳴る、安っぽい小銭の音。

 これよ。これが、今の私にふさわしい、泥にまみれた安っぽい音だわ。

 それから私は通りに出て、右に曲がり、美しい植物が目立つ赤い家と少し小綺麗な家の細い路地裏に入っていた。

 私がやって来たのは、リンドンアルスの肺胞とも言える、煤煙にまみれた裏通りの酒場『カラス亭』だ。

 ここには、街中の浮浪児や下男たちが集まる。彼らは金にこそ縁がないが、主人の家の「隠し事」や「ゴミ箱の中身」については、王立警察よりも詳しい。

 私は店内の隅に座る、片目の潰れた老給仕に声をかけた。

「……アヴィか。今日はマッチを売りに来たんじゃなさそうだな」

「ええ。少し、人の顔を思い出してほしくて」

 私は数枚の銅貨を老給仕の節くれ立った手に握らせ、写真を見せた。老給仕は銀貨の重みを確かめると、それを素早くポケットに沈めた。

「この男、見覚えはない? 七十過ぎ、禿頭。……医学関係の、それも『かなり高貴な場所』に出入りしていたはずの男よ」

 老給仕は手元のランプをじっと見つめ、それから写真に目を落とした。

「……ああ、この面構えは忘れねえ。五年前まで、北区の聖カライス病院の裏にある『解剖講堂』の主だった男だ。バルトロメウス・ヴァレンタイン教授。……だが、今は誰もその名を口にしねえ。あんた、関わらないほうがいいぜ」

「なぜ? そんなに危ない人物なの?」

「……教授は死体の『中身』を調べるだけじゃ飽き足らず、死者の『行方』……つまり、魂がどこへ行くか、なんてオカルトにのめり込みやがった」

 老給仕は声を潜め、震える指で十字を切った。

「教授の屋敷からは、毎晩、聞いたこともないような叫び声が聞こえていたらしい。……ある夜、その屋敷は真っ赤な炎に包まれた。死体は見つかっちゃいねえが、街の連中はみんな、教授は『悪魔に連れ去られた』と噂してる」

 私は、やっぱりこの依頼は断ったほうがよかったのかもしれない、と再び脳裏に浮かんだ後悔を無理やり押し殺した。

「……魂の行方、ね。ロマンチストな教授だこと」

 私は短く礼を言うと、足早に酒場を出た。

 カラス亭を後にした私の足取りは、少し重かった。

 北区、聖カライス病院の裏手。そこへ至る最短ルートを選べば、必然的にリンドンアルスの「膿」が溜まった路地を通り抜けることになる。

 石炭混じりの重たい霧の向こうから、絶え間なく咳き込む音が聞こえてくる。

 路地裏の突き当たり、溢れ出した下水の溜まり場には、力尽きた馬の死骸が放置され、その膨れ上がった腹を数人の子供たちが棒切れで突ついていた。彼らの目には好奇心も恐怖もなく、ただ明日の腐肉を待つハイエナのような濁った何かが宿っている。

 私は、外套の裾が汚泥に触れないよう、少しだけ爪先を立てて歩く。

「……あそこの角、去年までは老婆が座っていたはず」

 視界の端、以前は「人間だったもの」がうずくまっていた場所には、今はただの湿ったボロ布の山が積み上がっているだけだった。それが飢えで死んだのか、あるいは病で死んだのかを確かめるほど、私は暇ではない。

 通りを抜ける際、痩せ細った女が赤ん坊を抱いて、幽霊のような足取りで私の横を通り過ぎた。赤ん坊は泣き声さえ上げない。その肌は、リンドンアルスの空と同じ灰色に変色している。

 私は無感情に前だけを見つめ、懐の小銭が立てるジャラジャラという音を、外套の上から押さえた。

 この音を聞かれれば、あの女は私を殺しに来るだろうか。それとも、その前に力尽きて倒れるだろうか。

 やがて、汚物と死臭の混ざった悪臭の中に、別の匂いが混じり始めた。

 鼻を突く薬品の匂い。そして、時間が経っても消えない、何かが深く「焦げた」匂い。

 聖カライス病院の巨大な影が、霧の中から突き出した岩のように現れる。

 その裏手。周囲の建物を拒絶するようにぽっかりと空いた空間に、その廃墟はあった。


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