何者
廃墟の状態は、想像以上に酷いものだった。
天井は無残に崩れ落ち、湿った苔が壁面を青白く覆っている。骨組みだけになった建物の向こう側から、濁った太陽の光が建物を貫き、こちら側の地面に不規則な影を落としていた。
「……中には入れなさそうね」
私は、周辺の家並みに視線を向けた。
この地域の住人たちは、基本的に過酷な環境で働く低賃金労働者が多い。不吉な噂話や忌まわしい怪異が隣り合わせであっても、彼らには逃げ出すための資金がない。結果として、彼らはこの土地の「澱み」と共に、何十年もこの場所に住んでいる。
情報は、建物の中に入らなくてもすぐに集まるだろう。
だが、同時に彼らは、今日一日のパンが手に入るかどうかも分からない瀬戸際を生きている。稼げると思えば、彼らは飢えた獣のようにがめつくなる。
(一言、二言聞くだけで、銅貨を数枚。下手をすればその倍を要求されるわね)
私は外套のポケットの中で、闇両替商から受け取ったばかりのずっしりとした小銭の袋を握りしめた。
普段の私なら、彼らと「同類」として泥を啜りながら情報を掠め取っただろう。だが今の私は、コルセットの裏に「死神」の金を隠し持っている。
一刻も早く、この不気味な依頼を片付けたいという焦燥が、私の頭を狂わせる。
そうして、私は焦燥感に襲われながら周囲の住人たちを片っ端から捕まえては聞き回った。
二十人目の聞き込みを終えた頃、顔を上げると、いつの間にかかなりの時間が経っていることに気がついた。
重たい煤煙の向こう側、空には夕日が浮かび、汚泥にまみれた世界を束の間だけ黄金色に染め上げていた。
「……かなり有意義な一日だったわ。少なくとも、財布の軽さに見合う程度にはね」
真偽不明な噂も混じっていたが、いくつか無視できない共通点も浮き彫りになった。
バルトロメウス・ヴァレンタインは、常に銀の指輪を左の親指にはめていたこと。そして、家庭内は冷え切り、夫婦関係は最悪だったらしいこと。
なにより奇妙なのは、火事が起こる三日前、屋敷の玄関先で彼が「妻ではない別の女性」と激しく言い争う声が近隣に響いていたという証言だ。
手垢のついた情報の断片。だが、それらは確実に一人の人間の輪郭を形作り始めていた。
「とりあえず、今日はここで引き上げね」
私は、もはや黄金色から紫へと変わりつつある空の下、長居は無用とばかりに踵を返した。
***
月は厚い雲に隠れ、地上に届くはずの光は遮られていた。街灯も届かないこの道は、ただ深い闇に包まれている。
「暗いわね。……はぁ、もっと早く家に着く予定だったのに」
石造りの道は、歩くたびに小気味よく響く。だが、静寂に支配されたこの場所では、その音はあまりに目立ちすぎた。嫌でも自分の足音が耳にこびりつく。暗闇のせいか、それともこの音のせいか。私の歩く速度は、無意識のうちに上がっていた。
一つ目の曲がり角が見えたところで、私はその違和感に気づく。
石畳を叩く自分の足音の背後に、もう一つの不確かな「音」が混じっている。
闇の向こう側、視界には入らないが、粘りつくような「視線」が確実に私の背中を追いかけてきていた。
(……何かしら。ドブネズミか、それとも警察の飼い犬かしら)
私は迷わず角を左へ曲がった。
しばらく歩き、次の角もまた左へ。三度左に曲がれば、元の道に戻る。もし追っ手が偶然の通行人であれば、ここで道は分かれるはずだ。
だが、視線は消えない。それどころか、角を曲がるたびにその「圧」は強まり、私の心臓の鼓動を急かしていく。
(……クロね)
確信した私は、外套のポケットへ深く手を滑り込ませた。
三度目の角を左に曲がると同時に、私は大きく歩幅を広げた。一気に速度を上げ、霧を切り裂くようにして四つ目の角へ滑り込む。
曲がった直後、私は全力で壁際の闇に身を寄せた。そこは積み上げられた空の木箱と、崩れかけの建物の隙間が生み出した、完璧な死角だ。
(……さあ、顔を見せなさい。私の安眠を妨げる愚か者は、どいつよ)
角の向こうから、一筋の影が長く伸びてきた。その影は、落ち着きなく左右に揺れている。
(……私を見失って、慌てているようね)
影は刻一刻とこちらへ近づいてくる。
恐らく、今日、私が聞き込みのために銅貨を握らせた相手か、あるいはその行為をどこかで見ていた人物だ。
ポケットの中で握りしめた拳が微かに震え、手の平には嫌な汗が噴き出した。自分を落ち着かせようと深く息を吸い込む間にも、影はその本体を露わにしていく。
現れたのは、異様な姿の人物だった。
髪は白く、顔は汚れた布のような何かで覆われている。暗闇に加え、体型を隠すような分厚いコートを羽織っているため、男か女かさえ判別がつかない。
(……これ以上は無理ね。ドブネズミが一匹顔を出したってことは、暗がりに十匹は潜んでいると考えたほうがいい)
正面から向き合うのは得策ではない。
私は、相手の視線がこちらを捉える寸前、猫のように身を屈めながら、背後の路地の闇へと歩いていく。




