眠れぬ淑女
男が去り、廊下から完全に足音が消えるのを待ってから、私は音を立てないようにドアの鍵を二重に回した。さらに、安物のサイドテーブルを引きずってドアの前に据える。
「……はぁ。心臓が、耳元でうるさく脈打っているわ」
私は机の上に戻り、そこに鎮座する金貨の山を凝視した。
五十枚、六十枚、七十枚――。正確に数え直すたび、手のひらが脂汗で湿っていく。この煤けたリンドンアルスの夜に、これだけの純金が輝いている。それは希望などではない。私という獲物を吊り上げるための、あまりに巨大な「餌」だ。
さて、この『死神の贈り物』をどうすべきか。
「銀行? ええ、素敵なアイデアね。あそこの傲慢な行員たちに、この金貨を一枚ずつ見せびらかして、『これはマッチを売って貯めた、涙ぐましい努力の結晶ですわ』なんて微笑んであげるの。きっと彼らは感動して、預金通帳の代わりに、即座に警察への通報と、絞首台の予約をプレゼントしてくれるに違いないわ」
私は自嘲気味に呟いた。この街の銀行は、私のような「後ろ盾のない独身女性」が、突然一生分の金を抱えて現れることを許容するほど慈悲深くはない。即座に盗品を疑われ、出所を問い詰められる。依頼人のあの男のことを考えれば、この金がどこかの公金や、表に出せない犯罪組織の金である可能性は極めて高いのだから。
なら、分散して預ける?
それも論外だ。リンドンアルスの小規模な銀行や質屋なんて、明日の朝には邪悪な霧に巻かれて倒産していてもおかしくない。他人に預けるということは、そいつに私の首を絞める権利を与えるのと同義だ。
「結局のところ。この街で信じられるのは、自分の指先と、この事務所の壁くらいなものね」
私は最後に手元に残った数枚の金貨を眺め、ふと、自分の指先が小刻みに震えていることに気づいた。金貨同士が触れ合い、チリ、と小さな音を立てる。その微かな金属音にさえ、私の心臓は跳ね上がり、反射的にドアの向こうの気配を探ってしまう。
「……はぁ。馬鹿馬鹿しい」
私は大きく息を吐き、わざとらしく椅子に深く背をもたれかけさせた。
「落ち着きなさい、アヴィ。こんな金貨一枚の音に、取り乱しすぎよ。こんなの大したことない。金貨一枚が落ちる音なんて、リンドンアルスの喧騒の中じゃ誰も気にしないわ」
自分に言い聞かせるように、私は冷笑を浮かべた。
余裕を証明するために、手の中の一枚を天井に向けて高く放り投げる。金貨はランプの光を反射して、鮮やかな軌跡を描きながら宙を舞った。
――だが。
その金貨が最高到達点に達し、重力に従って落下し始めた瞬間、私の脳内にある「淑女の仮面」は音を立てて崩壊した。
(もし、この音が階下に響いたら?)
(もし、運悪く床の隙間に転がり込んで、二度と取れなくなったら?)
(もし――!)
「――っ!」
私は椅子を蹴り飛ばし、無様なほどに身体を投げ出した。膝を床に打ちつける痛みも、ドレスの裾が煤で汚れることも、もはやどうでもいい。私は床に接触する寸前の金貨を、まるで獲物に飛びかかる獣のように、空中でひっつかんだ。
……沈黙が、部屋を支配する。私は床に突っ伏したまま、握りしめた金貨の冷たさを確かめていた。
「……ふぅ。……少し考えてみたけれど、やっぱり、用心は必要よね。ええ、そうよ。慎重さは探偵の最大の美徳だもの。……決して、惜しいからとか、怖いからなんて理由じゃないわ」
私は誰に言い訳するでもなく、荒い呼吸を整えながらゆっくりと立ち上がった。被害妄想だとは分かっている。けれど、この黄金の重みが肌に触れている限り、私はリンドンアルスの霧に怯えるネズミと同じ、ただの臆病な逃亡者でしかないのだ。
私は事務所の中をプロファイリングするように見渡した。隠し場所の選定。それは、泥棒の視点に立つことから始まる。床下? 馬鹿馬鹿しい。泥棒が真っ先に踏み抜く場所だ。傾いた書棚の裏? 古典的すぎて欠伸が出るわ。
私が選ぶべきなのは、「隠しやすい場所」ではなく、「他人が絶対に触れたくない場所」だ。
私は事務所の隅、長年使われていない「死んだ暖炉」へと歩み寄った。煤が分厚く堆積し、時折ネズミの死骸が転がっている不潔な場所。私は袖を捲り上げ、淑女らしからぬ手つきで暖炉の奥、焦げ茶色の煉瓦のひとつを慎重に叩いた。
「……ここね」
わずかに響きが違う。私は護身用の小さなナイフを取り出し、煉瓦の継ぎ目を削り取った。煤にまみれ、顔を黒く汚しながら、私は金貨を三つの束に分けた。一つは、この暖炉の煉瓦の裏。一つは、事務所の裏手にある共同便所の、腐りかけた天井裏。
そして最後の一つ――。私は古いコルセットを引っ張り出し、その内側の裏地に、針と糸で小さなポケットを縫い付けた。かつて死体の口を縫い合わせた時と同じ正確さで、私は自分の「命の代価」を布の下へ封じ込めていく。
「……重いわね」
完成したコルセットを身につけると、物理的な金の重みが私の脇腹を圧迫した。呼吸をするたびに、金貨が肌に当たる。痛い。けれど、この痛みが、今この瞬間だけは唯一の安らぎだった。
作業を終えた頃には、夜が明け始めていた。懐には、今や一枚で数週間は暮らせる金貨がある。
「ダメよ。昨日までマッチを売っていた女が、今日いきなり高級店で食事なんてしたら、死を招く招待状を自分で書くようなものだわ」
私は汚れた顔を洗い、髪を整え、精一杯の「いつもの私」を作って外に出た。
向かったのは、いつものパン屋だ。
「おじさん。……今日の、焼きたての白パンを。あと、その角のチーズも」
いつもの「昨日焼いた硬いパン」ではなく、湯気の立つ温かいパン。店主が怪訝そうな顔をした一瞬、私の心臓は止まりそうになった。私は、金貨には一切手を触れず、マッチ売りのボロ着のポケットに残っていた数枚の銅貨をカウンターに並べた。
懐には一生分の金があるというのに、私は相変わらず、泥にまみれた数枚の銅貨を惜しみながらパンを買っている。
この金貨は、持っているだけで私を縛り付ける。使うことさえ許されない、輝く呪い。
お釣りのお金を受け取る手が、微かに震える。
事務所に戻り、温かいパンを口にした時、私はようやく涙が出そうになった。
「……美味しい。……本当に、なんて皮肉なの」
一生遊んで暮らせる金を手に入れた私が、たった一切れのパンの味に、これほどまでの恐怖と幸福を感じている。私は、机の上に置かれた「禿頭の老人」の写真を見つめた。金は手に入った。だが、それは同時に、私の平穏が完全に終わったことを意味している。
「さて、死神さん。……あなたは今、どの霧の中に隠れているのかしら」
私は白湯を飲み干し、胃の中で重たく居座る金貨の感触を確かめながら、最初の「調査」へと足を踏み出す準備を始めた。




