プロローグ
この街を支配しているのは、法でも王侯貴族でもなく、石炭の煤に汚れきった鉛色の霧だった。
湿った石畳を叩く馬車の音と、酔客の耳障りな怒鳴り声。それらが建物の壁を伝い、重低音となって私の安普請な事務所にまで這い上がってくる。私は、かつて依頼料代わりに質屋からひったくった銀のティーカップを口に運び、盛大なため息をついた。
「……最悪だわ。昨日よりもさらに『透明』に近づいている。これを紅茶と呼ぶのは、泥水をシャンパンだと言い張るくらい厚顔無恥な行為ね」
カップの中身は、もはや三度使い回した出がらしですらなくなった、ただの「色のついたお湯」だ。私は空腹で痙攣する胃をなだめるように、それを一口、優雅に啜る。どれほど喉が渇き、胃が悲鳴を上げていても、背筋だけは伸ばしたまま。スラムの泥濘で育った私が、唯一自分に課した鉄の規律――それは、死んでも「淑女」のふりをやめないことだ。
「大体、何が『探偵』よ。……笑わせるわね」
窓の外の霧を見つめ、毒づく。
「まともな神経をした人間なら、迷子の猫や不貞の証拠を探すために、わざわざネズミの死骸とカビの臭いが染み付いた部屋まで足を運んだりしない。……そして、まともな神経をした探偵なら、夜な夜な街角でマッチ箱を抱えて、酔っ払いの足元に跪いてお金を乞うたりもしないわ。ああ、忌々しい」
私の探偵事務所は、開店以来ずっと「死んでいる」。
昼間、私はこの薄暗い部屋で誰にも届かない「知性」を研ぎ澄ませているが、それは虚空に向かって吠える犬のようなものだ。誰も私を知らず、誰も私を必要としていない。
「家賃は三ヶ月滞納。ガス灯の燃料は底をつき、今夜の夕食は『空想のローストビーフ』。おまけに明日の朝食も、その残り物というわけね。……素晴らしいわ。これが賢明な女性が選ぶべき、輝かしい自立というものなのね。……ふん、馬鹿馬鹿しい」
テーブルに放り出された空の財布を、冷めた目で見つめた。
かつて、この指先はもっと違う重みを知っていたはずだった。だが、今の私にあるのは、ただのひもじさと、社会から切り離された絶望的な静寂だけだ。
ポケットから、売り残った湿ったマッチを一箱取り出した。指先で箱のざらついた表面をなぞる。マッチ売りの少女が、最後には暖かい幻影を見て雪の中で死んだという御伽噺があるが、私に言わせればそれはあまりに甘すぎる物語だった。
「私なら、最後のマッチで自分の幸福な幻を見る前に、隣に立っている金持ちの馬車に火をつけてやるわ。豪華な毛皮を焼く臭いの方が、死ぬ前の最高の肴になるでしょう?」
一本のマッチを取り出し、壁のザラついた部分で勢いよく擦った。湿り気のせいで一度目は不発。二度目、三度目でようやく、小さく弱々しい火が灯る。その、今にも消えそうな火影が、私の冷笑的な瞳に不気味に映った。
「……お腹が空きすぎて、火の色が金貨に見えてきた。重症ね。そろそろ餓死者の名簿に、自分の名前を書き込む準備でも始めたほうがいいかしら」
自嘲気味に呟き、小さく笑った、その時だった。
――コン、コン。
静寂を切り裂くような、乾いた音がドアを震わせた。
私の手の中で、マッチの火がふっと消える。暗闇が戻り、一筋の煙だけが立ち上った。
――コン、コン、コン。
規則的な、三回のノック。
家賃の督促に来る大家にしては、あまりに静かすぎる。警察の踏み込みにしては、礼儀正しい。
私は消えたマッチの軸を床に捨て、ゆっくりと立ち上がった。空腹による眩暈が、獲物を前にした捕食者のような心地よい緊張感へと塗り替えられていく。鏡も見ずに手櫛で乱れた髪を整え、完璧な「探偵」としての、冷徹な淑女の仮面を被る。
「……こんな夜更けに、迷い家をお探しですか。それとも、埋葬の場所を?」
錆びついたドアノブに手をかけた。
リンドンアルスの霧を押し分け、この「死にかけの事務所」を訪ねてきたのは、私の命を繋ぐ天使か、あるいは地獄へ引きずり下ろす悪魔か。口元に一筋の毒を含んだような微笑を浮かべ、扉を押し開けた。
男が立っていた。
それも、かなり目立つ男だ。仕立てのいい外套、磨き上げられた革靴――煤けたこの事務所には不釣り合いなほどに身なりがいい。リンドンアルスに生きていれば、人間の値踏みくらい朝飯前だ。外套の生地はカシミアか、それに近い何かだろう。釦の一粒で私の三ヶ月分の家賃が払えそうだった。
「探偵さんですか。依頼があって参りました」
とっさに返事ができなかった。
まさかこんな金持ちが訪ねてくるとは思っていなかった、というのが半分。もう半分は――金持ちが「探偵さんですか」と確認する必要などないはずだ、という、職業的な引っかかりだ。
だが、腹の虫が「今は余計なことを考えるな」と命じてくる。私は感情を顔の裏に押し込み、一歩、退いた。
「……外は目立ちますわ。どうぞ」
男を中へ入れながら、素早く通りを確認する。追手の影も、不審な視線もない。少なくとも、今この瞬間は。
事務所に入った男は、部屋をぐるりと見渡した。その視線が何を語っているか、私には手に取るように分かる。――惨めな部屋だ、と思っているのだ。カビの染みが浮く壁紙、傾いた書棚、灯油の節約のために半分まで絞ったランプ。それが証拠に、男の眉が、ほんの僅かだが動いた。
私はその視線を、完璧な無関心で受け流した。
「……用件をお聞きしても」
男は答えず、鞄から無言で封筒を取り出した。
「この人を探してほしいんです」
封筒から出てきたのは一枚の写真だった。七十は超えているだろう、禿頭に白い顎鬚を蓄えた老人。特徴的な面構えだ。猫を探すより、よほど簡単そうに見えた。
私はもう一度、依頼人の男をじっくりと眺める。
貴族か資産家か、そこまでは分からない。ただ、只者でないのはひと目で分かる。外套の仕立てだけではない。振る舞いだ。男は部屋を見渡しながらも、決して入り口を死角に置こうとはしなかった。常に退路を意識したその足運びは、紳士のそれというよりは、いつ襲われてもおかしくない逃亡者のそれだ。あれは訓練された立ち居振る舞いだ、意識してやっているというより、もう体に染み付いているのだろう。軍人か、あるいはそれに類する経歴を持つ人間か。
そして何より――男の目が、笑っていない。
口元は穏やかな依頼者の顔を作っているが、瞳の奥に浮かぶのは焦燥か、それとも恐怖か。いずれにせよ、この男はひどく切羽詰まっている。
うまくいけば、この依頼ひとつで一ヶ月分以上の家賃が賄えるかもしれない。
そう打算する自分と、この依頼には何か厄介なものが絡んでいると直感する自分が、胃の中でせめぎ合っていた。
「あの、一つお聞きしてもいいですか。なぜ、私のところへ?あなたの身なりなら、もっと名の通った探偵を頼めるはずですが」
男の喉が、かすかに鳴った。
鞄の中へ、静かに手をかける。その動作が一瞬、ひどくゆっくりに見えた。銃か、と思った。次の瞬間には笑い飛ばしたが、私の背中にはもう薄い汗が滲んでいた。
「詮索はしないでほしい。あなたはただ、この男を探してくれればいいんです」
そう言って男は、机の上に金貨を積み上げた。
一枚、二枚――枚数を数える前に、私の思考は完全に停止した。
五十枚。いや、もっとあるか。
ランプの光を受けて、金貨たちが一斉に呼吸をしたように見えた。あの重なり合う光は、何だろう。欲望の色、とでも言うべきか。私はそんな詩的なことを考えている場合でもないのに、しばらくの間、ただその輝きを眺めていた。空腹と疲弊で緩んだ頭が、現実の計算を拒んでいた。
「依頼、受けていただけますね?」
「え、えっと……わかりました」
声が上ずった。自分でも驚くほどに。
私はその瞬間の自分が、ひどく恥ずかしかった。
探偵アヴィは、いつだって冷静だ。どんな依頼にも動じず、相手の感情を逆手に取り、常に一手先を読む。それが私の看板だったはずだ。だというのに今の私は、金貨の山を前にして声を上ずらせた三流の詐欺師みたいな顔をしている。
いや、待て。
冷静になれ、探偵アヴィ。
私は机の縁に指先をかけ、気取られない程度にそっと力を込めた。硬い木の感触が、少しだけ頭を醒ます。
――考えろ。
名の通った探偵ではなく、なぜ私なのか。
この街には優秀な探偵が少なくとも三人いる。王室御用達の看板を掲げるダレン事務所、元警部のカーライルが開いた老舗、そして南区で急速に名を上げているという若い女探偵。どれも私より実績があり、信頼があり、人脈がある。
それでもこの男は、家賃三ヶ月滞納の、マッチ売りで糊口を凌ぐ私を選んだ。
理由は二つ考えられる。
一つ目――私が「弱い」から。金に困窮しているから、大金で釣れば何でも引き受けると踏んだ。実際その通りになったわけで、これは私にとって腹立たしいが否定できない事実だ。
二つ目――私が「繋がりを持っていない」から。警察とも、貴族社会とも、裏の組織とも、どこにも属していない。つまり、この依頼が漏れる先がない。
どちらにしても、この依頼は「表に出せない」何かを抱えている。
それがどれほど危険なものかは、まだ分からない。写真の老人が何者なのかも。「深追いするな」という言葉の意味も。
だが私の「探偵」としての部分が、鋭く、静かに、警鐘を鳴らし続けていた。
机の上の金貨の山を、もう一度見る。
煤けた事務所のランプに照らされ、それはリンドンアルスの霧の中では決して拝めない、暴力的なまでの輝きを放っている。家賃の督促に怯える夜も、指先を凍らせてマッチを売る夜も、すべては今この瞬間に終わったのだ――そう思う自分がいる。
同時に、その輝きが、どうしようもなく禍々しく見えた。
宝石でも毒でも、きらきらと光るものには気をつけろ、とスラムで育った私に最初に教えてくれたのは誰だっただろう。もう顔も思い出せない。ただ、その言葉だけが今も骨の髄に刻まれている。
美しいものには必ず、対価がある。
では、この金貨の対価は何だ?
「……ありがとうございます。明朝からすぐに、着手いたします」
私は笑顔を貼り付け、震える手で金貨の一枚に触れた。本物の金の、ずっしりとした重み。
その重みの分だけ、何かが私の首に巻きついた気がした。
依頼人の男は、私が金を承諾したのを見届けると、一秒でも早くこの場を立ち去りたいという様子で帽子を深く被り直した。
「期待しています。……それと、その写真の男を見つけても、決して『深追い』はしないこと。ただ、居場所さえ分かればいいですからね」
男はそれだけ言い残すと、煤けたドアの向こうへと消えていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、私はしばらくの間、動けなかった。
足音が廊下を遠ざかり、階段を下り、やがて完全に消える。それでも私は、机の前に立ったまま、金貨の山を眺め続けた。
事務所に残されたのは、静寂と、机の上で鈍く光る大量の金。そして、禿頭の老人の写真。
私はゆっくりと椅子を引き、腰を下ろした。写真を手に取り、老人の顔を正面から見つめる。白黒の粗い質感の中でも、その老人の瞳はどこか虚空を掴むような、異様な迫力を持っていた。
――深追いするな、か。
探偵に「深追いするな」と言う依頼人がいるだろうか。依頼人が本当に望んでいるのは、調査の深度ではなく、探偵の口を封じることではないのか。居場所さえ分かればいい、というのは、つまり――その後の仕事は、自分たちでやる、ということだ。
私はその老人の瞳を眺めながら、静かに考え続けた。
この男は何者なのか。
依頼人は何者なのか。
そして私は今、何に巻き込まれようとしているのか。
金貨が、ランプの揺れに合わせて、ゆらゆらと光を踊らせている。
美しい、と思う。
そして同時に、私はひとつの言葉を思い出した。
――罠というものは、決まって甘い匂いがする。
私はため息をひとつついた。今夜もまた、空想のローストビーフで夕食を済ませるつもりだったのに、どうやら私はもっと厄介なものを食わされることになったらしい。
写真の老人が、静かに私を見返していた。その空洞のような瞳の奥に、何があるのかを知るのは――おそらく、これから先の私の仕事だ。
好むと好まざるとにかかわらず。
私はティーカップを手に取り、三度出がらしのお湯を一口すすった。
冷めきっていた。それでも、今夜の私にはそれで十分だった。




