第38話
暗く、昏く、黒い四角い部屋。水の滴る音以外は何も聞こえない静かな場所。獣が腐ったような臭いが漂っているが、今はもう何も感じない。
腕は鉄の鎖に繋がれて、天井から吊り下げられている。はじめは肩に痛みがあったのだが、今はもう何も感じない。力を入れることも、力を抜くことも、今はもう何もできない。それでも、目はしっかりと暗闇を見つめていた。
何の変化もない場所に、石畳の上を歩く革靴の音が響いて聞こえる。随分と久しぶりの変化のような気もするが、先ほどもあったことのような気もする。時間の感覚が失われていた。いつから失われたのかも分からない。
足音はリクトの前で止まった。
金の刺繍の入った青いローブを身につけ、ウェーブのかかった長い白い髪をした男性がリクトの前に現れた。その気配を察したリクトは視線だけを男性に向けた。
「ほう、まだ生きているのか。よいぞ、実によい」
その男性の姿に心当たりがあった。初めて王都へ連行された際に謁見を許された王、クリオリス・デオ・マーリナス。その姿に間違いなかった。
リクトはうめく。王の姿に少しの希望を見たからだ。
「ん? どうした。余のことを憶えていたのか。これは、意外な事よ」
王は喉を鳴らして笑う。よほど楽しいのか、身体まで震わせている。次に大声をあげて笑い始めた。口を大きく開け、腹の底から声を出してる。その笑いは愉悦に満ち溢れ、至福を味わっているようだ。
「俺のことを憶えていますね。俺です、『尋問官』です」
王は白い髪のかつらを取り外す。その下から現れたのは。短いアッシュブロンドの髪。リクトを眺める瞳は青色でぎらついていた。その様子にリクトは息を飲んだ。
「それにしても、いい姿になったものだ」
王の瞳がリクトを観察する。なめ回すように、身体のすみずみを見つめてくる。そんな王にリクトは睨みつけた。
「ガアッ……ガアッ……」
全力で叫んでも、まともに声が出ない。それでも、叫ぶことはできていた。王に襲いかかろうにも、身体が揺れる程度だった。それでも、目を見開き、口を大きく開けて怒りをぶつけようとする。
「いいぞ、いいぞ、『尋問官』と騙されていたことがそんなに嬉しいか。ここは余が特別にお前を評価してやろう」
王はリクトを芸術品を品評するかの様に、身体を眺めてくる。口角をあげながら、品定めしか結果を口にする。
「指の数がさらに減ったようだな。3本くらい残しておいたが、もう1本しか残っていないな。これでは何の意味もない。すべて切り落としたほうがいいだろう。ここは減点だ」
「ん? 腕の骨が折れているのか? 腕が伸び切って今にもちぎれてしまいそうだ。おや、足も折れているのか、明後日の方向を向いているじゃないか。だが、折れた骨が肉からはみ出しているのは、美しくないな。不要な骨は取り除いておいた方が、好感が持てた」
「その身体……随分とスッキリしたな。不要だった皮がすべて剥がされているのか。ここからでも、筋肉の繊維が1本ずつはっきり見えるぞ。その繊維もかなりちぎれているな。もう、動かす必要もないから、何も問題は無いようだ。しかし、もう少し綺麗に剥ぐことはできなかったものか。所々にこびりついたものが不快で仕方ない」
「おや、お腹から綺麗なピンク色の管が垂れ下がっているようだ。少しうごめいているのかな。まるで生きているかのようだ。くその様に汚いお前にも、こんな部分があったのだな。これは評価を改めないといけない。喜びたまえ」
「ふふふ、顔も男前になったじゃあないか。左眼の辺り以外は、涼しいのではないかな。不要だった鼻も耳も唇も綺麗になった。今の方が見ていて飽きぬ。ここは綺麗に皮が剥がしてある。朝起きた時に髭を剃るように、身だしなみは大切だ。やはり、人にとって、顔は重要だからな。整えるのは、大事なことだ」
「その口……随分とスッキリしたな。やはり、歯などというものは、よくない。あれは並びかたで随分と評価が変わる。何もなければ誰もが平等な評価を受ける。ああ、だが、まともに喋れないなそこは残念だ。餌を求める観賞魚の様に、口を開ける姿は実に可愛らしい。今のお前は、女どもにひっぱりだこだろうよ。このまま往来に出てみてはどうかな」
「ここまで吠えることができるのは、喉が潰れていないからか。いい、実にいい。余の好みだ。何も吠えられない負け犬はそ、こ辺の浮浪者と何も変わらん。吠えてこそ、その声は子守歌よりも心地よいぞ」
「やはり、ここが最高かもしれん。右の眼球はどうした。瞼をはがされて、落ちてしまったのかな。暗い洞穴のような眼窩は見ていて飽きがこない。右がないおかけで、残った左が強調される。その無くなった右の眼球は、今何を見ているのだろうな」
満足げに王はうなずいた。王はリクトから視線を外し、ひとつ呼吸をした。
「なかなか悪くはなかったが、及第点には及ばなかったな。これは、失敗だ。お前には素質があると思ったんだがな……」
王は残念そうにつぶやく。人をできそこないのツボを見るような目で見ていた。そもそも、王はリクトを人として見ていない。
「お前が最初にここへ来た時、お前の目には希望があった。自分は無実だと、信じて疑わなかった。適当に遊んで、戦場送りにして処分するつもりだった。だが、お前は帰ってきた。余は楽しかったぞ。捨てたはずの玩具がまた戻ってきたのだ。それも、以前より面白いものになってな」
王は物思いにふけるように、言葉を続ける。
「次の戦場へ送り出したがまた帰ってきた。随分とひどい目に遭ったというのに、その目にはまだ希望が残っていた。余はそれを消してやろうと考えた。だから、お前が贔屓にしていたマナ人間を使って、ここから脱走させた。お前は面白いように、食いついたよ」
ファストがリクトを助けにきた日。不自然なまでに人と出会わなかった。それはつまり、国王の命令で人払いをしていただけだった。ファストと逃げ出すのに都合がいいように操っていたのだ。
リクトの王を見る左眼が揺れる。
「お前が故郷に向かうことは予想できた。外れだったとしても、故郷を焼き払うつもりだったがな。くくく……思い通りになって笑いが止まらなかったよ。ついに、その目から希望が消えて、どぶのように濁り切ったのが面白くて仕方がなかったぞ」
王は右手で顔を覆って笑ってみせる。全てが自分の予測通り、それ以上になったことが愉快でたまらないのだろう。それに対してリクトからは力が抜けていく。
自分が選んできたと思ったものは、全てがこの男の手のひらの上だったのだ。無力感に包まれ、項垂れた。
「最後に、いいことを教えてやろう。お前が持っていた、あの通行手形。あれは本物だ。余が適当な人材を用意しろと命令しただけだ。お前は偶然にそれに引っかかっただけだったんだよ」
その言葉にリクトは顔をあげた。左しかない眼球は国王を捉える。全ての始まりはこの男だった。この男が命令しなければ、この男が王でなければ、この男がいなければ。この世の全てを恨む暗い気持ちが全身をめぐる。
「アガァァァァッ!! アガァァァァッ!!」
力の限り叫ぶ。この身体のどこに力が残っているかと思わんばかりに、リクトは手枷の鎖を引っ張る。ガシャン、ガシャンと何度も鎖が音を鳴らす。まるで獣のようだった。この男を噛み殺そうとするだけの獣になっていた。
絶対に安全な場所にいる王はその様子を満足そうに見下ろす。リクトが苦しめば苦しむほど、王の愉悦は高まっていく。牢獄には、男の笑い声と獣の咆哮だけが響いていた。
「本当なら、お前は公開処刑をするべき大罪人。しかし、その格好では民が恐がってしまう。せめてもの温情だ。生きたまま下水道に捨ててやろう。その身体でどこまで生き長らえることができるのかわからんが、存分に余生を謳歌したまえ」
言いたいことだけ言った王は、もうここには用がないと振り返る。リクトに背中を見せて来た道を帰っていく。これ以上ないほど見開かれた左眼はその姿を映し続けていた。
翌日、覆面をした男2人に手枷を外される。頭と胴体を持ち上げられて運ばれていく。その間、はみ出た腸が岩造りの道の上を、引きずられていく感触がした。
マナ人間研究機関へと続く下水道へとやってくると、覆面の男は無造作にリクトを放り投げる。リクトはそこに沈む『何か』となった。他の『何か』もきっと、リクトと同様だったのだろう。
何も感じなくなったリクトは、そのまま水の底へ沈んでいった。




