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じゃあね

 


 


 来るな、と言われたその二日後も、僕はシミア姉さんの元を訪れた。彼女は呆れたようにため息をついて僕を迎え入れた。

 そんな日々がしばらく続いた。とりとめもない話をして、時間を過ごすだけ。暗黙のうちに、かつての故郷の話題は避けられていた。

 眠る彼女の顔を見ることが増えた。僕は黙って枕元の椅子に座っていた。

 シミア姉さん、と呼ぶと、彼女は小さく微笑んだ。僕たちは紛う方なき完璧な姉弟だった。



 夏も真っ盛りだったが、この街はやけに涼しくて居心地が良い。開け放った窓から入ってくる風を受けながら、彼女は僕を見た。


 妙な儚さを、その眼差しに感じた。僕は思わず息を止めた。



「……前にね、延命治療を拒んだの」

 彼女が囁く。

「今は痛み止めだけ処方して貰ってるんだ」

 その言葉の意味が、分からない。


「明日から、もう少し強い薬に変えるから、もしここに来てくれても、私は寝ていると思う」

 彼女はさも世間話をするように、さらりと告げた。



「それに、もうすぐ夏休みも終わるでしょう」

 緩く目を細めて笑んだ彼女が、先の取れた右腕を伸ばす。未だに僕はその腕を直接見ていない。


「シミア、姉さん、」

「ラザは」

 何か言いかけた僕の言葉を遮って、シミア姉さんは僕に左手を伸ばした。

「これからいっぱい、色んな体験をするわ。その中には辛いことだってあるし、知りたくなかったことだってあるかも知れない。でもね、」

 彼女の視線が僕のそれと重なる。



「――逃げちゃ駄目よ」


 その言葉に、すぐさまフラッシュバックする記憶に、身震いした。僕にナイフを突き立てて笑うシミア姉さんの顔が蘇る。

 今のシミア姉さんは、笑っていなかった。どこか切なげに眉をひそめて、僕の頬に左手を伸ばす。


「じゃあね」


 細く息を吸ったシミア姉さんが、笑う。その表情に、かつての面影を強く感じた。



 ***


 次の日、病室を訪れた僕は、眠るシミア姉さんを、無言で見下ろした。

 真夏に比べれば随分涼しくなった風に、額の生え際の和毛が揺れていた。


 傍らの机で課題をしながら、動く気配のない彼女を時折見やる。……本当に、目覚めない。こうしていると、生きているのか死んでいるのか分からないようだった。

 奨学金を貰えないと学校に行けないので、課題は何があろうと終わらせなければいけなかった。

 それでも、視線は頻繁に文字を上滑りして、眠るシミア姉さんまで投げかけられた。

 好きだよ、シミア姉さん、と、唇だけで囁いた。決して言うつもりのない言葉だった。


 僕は、またその目が開くところが見たかった。一度で良いから、と願ったシミア姉さんの気持ちが、痛いほど分かった。

「ぜんぶ、全部許すから……。お願いだよ、」

 僕は顔を覆って呻く。酷薄な彼女は目覚めない。

 ――シミア姉さんは確かに罪を犯したかも知れない。人を一人見捨てて逃げ出したという、ただそれだけの罪を。

 その咎として彼女は腕を失った。それで十分じゃないのか。一体何が彼女を許さないと言うのだろうか。僕が許すのに。……どうして、シミア姉さんは、





 新学期が始まって数日経ったある日、僕は、彼女の訃報を受け取った。



 ***


 彼女の葬儀はしめやかに執り行われた。

 故郷から駆けつけてきたおじさんとおばさんは、シミア姉さんの亡骸を見るより早く崩れ落ちた。死に目に間に合わなかった、と肩を落とす二人を前に、僕は言葉を選びかねて立ち尽くす。

 七年前のあの日から程なくして、僕は別の家へ移ったのだ。シミア姉さんの治療費のため、僕を養えるだけの余裕がなくなったからだった。


「……お久しぶりです、」

 そっと話しかけると、二人は疲弊しきった顔で僕を見上げた。おばさんは何か言いたげな顔で僕に向かって口を開きかけ、そのまま閉じる。おじさんは厳しい表情でおばさんの肩を抱いた。


「少し、二人だけにしてくれないか……」

 疲れた顔をしたおじさんにそう言われて、僕は小さく首肯した。静かにその場を離れ、僕はシミア姉さんの棺の側へ行った。



 それは、眠っているときと何も変わらないように見えた。今にもぱっちりと目を開き、微笑みかけてきそうな表情だった。目頭が熱くなる。

 シミア姉さん、と、息だけで呼ばわった。彼女は目覚めない。

 日に焼けていない白々とした肌。紅が引かれた唇は角度によっては弧を描いているように見えた。

 そうして彼女は安らかに眠っていた。


 僕はどこか静かな悲しみを抱えたまま、その顔を見下ろす。七年前、既に経験した裏切りのような、焼け付くような痛みはなかった。襲うのは、そっと軽く喉を締め付けられるみたいな息苦しさだった。

 下睫毛で震えた雫が、足下に落ちる。僕は唇を戦慄かせながら、彼女の左手に触れた。熱の抜けた指先を軽く握って、僕は、僕の姉に別れを告げた。




 ***


 秋が深まる頃、指定された参考書を持参するようにと言われて、僕は入学時にまとめて購入して棚に並べたきり、あまり触れていなかった教科書類を漁った。


 全訳陸上生物図説。ようやく見つけたその資料集を手に、僕は少し立ち尽くした。


 ふと、今まで聞くのも口に出すのもおぞましく、文字で見るのさえ恐ろしかった、その名が頭に浮かぶ。直後はあまりに恐ろしくて、ただ怯えることしかできなかったけれど、七年の時を隔てた今なら、もう文字くらいは見れる気がした。


 索引から、その名前を探す。


 示された472という数字。

 ふと耳の底に蘇った、暖炉の炎が爆ぜる音。僕の姉さんの横顔が浮かび上がる。右手で頬杖をつき、ページをめくる左手が揺らめく光に照らされた。



 親指でページを送り、472ページで止める。僕は立ったまま、そのページに並んだ文字を目で追った。



 コクラデス。北方の高山に生息する。とても獰猛。洞窟の中で一生の大半を過ごす。


 素早く情報を拾いながら、僕は目を走らせる。




 その目は暗闇に適応し、明るい場所では動かないものを認識できない。


 ――――そのため、コクラデスは動くものを追う性質があると報告されている。

















 ……『逃げちゃ駄目よ』と彼女が優しく囁く。

 僕の脳裏に、雪を散らして走り去るシミア姉さんの後ろ姿が鮮烈に蘇った。







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