第九十六話「出会いの温度」
海岸。
小舟が、ゆっくりと砂浜に触れた。
「……着いたか」
ガイアスが立ち上がる。
潮風を吸い込む。
「いい場所だな」
素直に呟く。
崩れた港は見えるが、
それでも海は綺麗だった。
船を軽く引き上げる。
周囲を見渡す。
「さて……中央島、だったか」
歩き出す。
警戒は、していない。
いつも通り。
その足取りは、軽い。
まるで、
散歩でもしているかのように。
その様子を――
少し離れた場所から、
イリスが見ていた。
「……誰」
息を潜める。
木陰の中。
目だけを覗かせる。
男。
一人。
武装は……軽い。
だが。
(……ありえない)
こんな場所に、
あんな無防備で来るはずがない。
(罠……?)
手に、ナイフを握る。
震えている。
だが、
離さない。
(近づかせたら、終わり)
自分に言い聞かせる。
呼吸を整える。
そして。
一歩、踏み出す。
「――動くな」
低い声。
刃を向ける。
ガイアスが止まる。
振り返る。
「……ん?」
その反応は、
あまりにも軽かった。
「誰だ?」
普通に聞く。
まるで、
警戒という概念がないように。
「それ以上、近づくな」
イリスが言う。
声が、わずかに震えている。
ガイアスは、じっと見る。
そして。
「……ああ、悪い」
あっさりと両手を上げる。
「敵じゃねえよ」
笑う。
その表情に、
イリスは一瞬、言葉を失う。
(……何、この男)
おかしい。
状況が。
空気が。
「……目的は」
なんとか言葉を出す。
「中央の島を探してる」
即答だった。
隠しも、濁しもない。
そのまま。
「この辺りで合ってるか?」
普通に聞いてくる。
イリスの思考が、止まる。
(……は?)
理解できない。
この男は、
本当に知らないのか?
「……あんた」
ゆっくりと言う。
「……何も、知らないの?」
ガイアスが首を傾げる。
「何をだ?」
その一言で、
確信する。
この男は――
本当に、知らない。
「……ここ」
言葉が、重くなる。
「“狩られてる”のよ」
静かに。
だが、
確実に震えている。
ガイアスは、
一瞬だけ黙る。
そして。
「へえ」
小さく笑った。
「面白えな」
その言葉に。
イリスの目が見開かれる。
「……は?」
理解できない。
「役人さんがいないんだっけか?」
ガイアスが続ける。
「政府の船も動いてないみたいとか」
イリスは、何も言えない。
ただ、頷く。
「なら」
一歩、踏み出す。
「見てみねえとな」
「来るな!!」
イリスが叫ぶ。
ナイフを強く握る。
「それ以上近づいたら――」
言葉が、途切れる。
ガイアスは止まる。
だが。
怖がっていない。
それが、分かる。
「……大丈夫か?」
逆に、問いかけてくる。
その一言で。
何かが、崩れた。
「……は……?」
呼吸が乱れる。
「なんで……」
足が、震える。
「なんで、そんな……」
普通でいられるのか。
言葉にできない。
そのまま。
力が抜ける。
膝が、崩れる。
「おっと」
ガイアスがすぐに支える。
反射的だった。
「……離れて」
イリスが言う。
だが。
力が入らない。
「無理すんな」
あっさり言う。
「顔色、終わってるぞ」
軽い。
あまりにも。
だが。
その軽さが。
今のイリスには、
少しだけ――
“現実”に感じられた。
「……なんなの、あんた」
かすれた声で聞く。
ガイアスは、少しだけ笑う。
「通りすがりだ」
それだけだった。
イリスは、目を閉じる。
呼吸が、少しだけ落ち着く。
怖い。
だが。
この男は――
“違う”。
直感で分かる。
少しだけ。
ナイフを下ろす。
完全には、離さない。
だが。
敵意は、わずかに緩む。
ガイアスは、それを見て。
「……で」
普通に言う。
「中央島、どっちだ?」
イリスは、思わず笑いそうになる。
こんな状況で。
こんなことを聞くのか。
だが。
その問いが。
自分を、
少しだけ“戻した”。
「……あっちよ」
力なく指をさす。
「ただし」
一拍。
「……行けば、死ぬ」
ガイアスは、頷く。
「そうか」
それだけ。
そして。
「じゃあ、一緒に行くか」
自然に言った。
イリスは、目を見開く。
「……は?」
「一人よりマシだろ」
当たり前のように。
その言葉に。
イリスは、何も言えなかった。
ただ。
心の奥で。
何かが、
わずかに動いた。
恐怖ではない。
ほんの少しの、
“繋がり”。
静かな崩壊の中で。
二人は、出会った。
まったく違う温度で。
だが。
同じ方向へ、
歩き出そうとしていた。




