第九十三話「残された者」
朝。
海洋諸国連合――中央島。
静かだった。
あまりにも。
「……何が起きてるの」
女が呟く。
イリス・カーディア。
元首セレナの側近。
本来なら。
この時間、
既に会議が始まっているはずだった。
だが。
誰も来ない。
誰も、動かない。
「……遅すぎる」
苛立ちを隠さず、
廊下を歩く。
足音が響く。
やけに、大きく聞こえた。
「……?」
違和感。
人の気配が、ない。
扉の前に立つ。
中枢室。
本来なら、護衛がいる。
だが。
「……誰もいない?」
扉が、少し開いていた。
ゆっくり押す。
中を見る。
机。
椅子。
書類。
全て、ある。
だが。
「……嘘でしょ」
誰もいない。
一歩、踏み入れる。
冷たい。
空気が。
違う。
「……ふざけないで」
声が、震える。
「誰か、いるんでしょ」
返事はない。
沈黙だけ。
その時。
足元に、何かが転がった。
小さな金属片。
見覚えがある。
護衛の装備。
だが。
“中身”がない。
「……何これ」
呼吸が浅くなる。
理解できない。
戦闘の跡はない。
血もない。
だが。
人だけが、いない。
「……そんな、馬鹿な」
後ずさる。
壁にぶつかる。
その時。
遠くで、悲鳴が聞こえた。
「――っ!!」
走る。
廊下を。
曲がる。
階段を降りる。
外へ。
人が集まっている。
「どうしたの!?」
叫ぶ。
誰も答えない。
ただ。
震えている。
「……何があったのよ!!」
一人を掴む。
男は、顔を青くしていた。
「……消えた」
「は?」
「みんな……消えた」
理解が追いつかない。
「元首様も……」
一拍。
「……全員、いない」
その瞬間。
世界が、止まった。
「……嘘よ」
即座に否定する。
「そんなこと、あるわけ――」
言いかけて。
止まる。
頭に浮かぶ。
“あの名前”。
元首様達が以前言っていた言葉。
『ヴァルターは死んだ』
その記憶が、
ゆっくりと、歪む。
「……まさか」
声が、かすれる。
「……嘘でしょ」
誰も答えない。
だが。
全員が、同じことを考えていた。
「……来たの?」
小さく呟く。
「……あの男が」
次の瞬間。
恐怖が、現実になる。
「逃げろ!!」
誰かが叫ぶ。
何かが起きたわけじゃない。
だが。
“ここにいたら死ぬ”。
それだけは、全員が理解していた。
人が、散る。
イリスも走る。
ただ、生きるために。
どこへ向かっているのかも分からないまま。
――数時間後。
小さな家。
扉を閉める。
鍵をかける。
さらに、家具を押し付ける。
窓も閉める。
息が荒い。
「……はぁ……はぁ……」
座り込む。
震えている。
手も、足も。
止まらない。
「……なんで」
声が、出ない。
「……なんで、私だけ」
涙が、落ちる。
いつもなら。
冷静だった。
判断できた。
指示を出せた。
だが今は。
何もできない。
ただ。
怯えている。
「……来ないで」
誰もいない空間に向かって、
呟く。
「……お願いだから」
耳を塞ぐ。
音が怖い。
静けさが、もっと怖い。
時間が分からない。
どれだけ経ったのかも。
ただ。
分かっていることが一つ。
“終わった”。
連合は。
もう。
以前の形では存在しない。
そして。
どこかで。
まだ、動いている。
あの男が。
イリスは、震えながら顔を上げる。
その目には、
恐怖と――
わずかな、生存の意志が残っていた。
彼女は、まだ知らない。
この先。
“もう一人の男”と出会うことを。
恐怖ではなく。
“意志で空を目指す男”と。
その出会いが、
再び彼女を動かすことになる。




