第八十二話「折り合いの形」
王城、執務室。
机の上には、教国からの書簡が置かれていた。
短い。
だが、その一文一文に、感情が滲んでいる。
――失望。
――不信。
――そして、抑え込まれた怒り。
レグナはそれを静かに見つめていた。
目を逸らさない。
逃げない。
これは、自分が選んだ結果だ。
「……」
息を吐く。
思考を整えるための呼吸。
あの場での判断は、間違っていない。
クロノスを渡さない。
それは絶対だった。
だが――
「それだけでは、駄目ね」
小さく呟く。
王として、それでは足りない。
扉がノックされる。
「入って」
入ってきたのは、クロノスだった。
「お呼びでしょうか」
「ええ」
レグナは椅子から立ち上がる。
机の書簡を指で軽く叩く。
「教国の件よ」
「……はい」
短く頷く。
「このままだと、関係は確実に悪化する」
「そうですね」
「でも、戦争にはならない」
淡々とした分析。
感情は乗っていない。
「ええ。今の教国には、もうその力はない」
多くを失った。
兵も、力も。
残っているのは――信仰と、意志だけだ。
「だからこそ」
レグナは続ける。
「ここで完全に切るのは、愚策よ」
「……はい」
クロノスは素直に頷く。
「……どうしますか?」
少しだけ柔らかい声で問う。
レグナは一度視線を落とし、
そして、顔を上げる。
「別の形で、応える」
数刻後。
王の間。
再び、教国の使者が立っていた。
空気は硬い。
張り詰めている。
「再度お呼び立てしたこと、詫びるわ」
レグナが言う。
使者は無言で頭を下げる。
だが、その姿勢は冷たい。
「結論は変わらない」
レグナは言う。
「降臨者は渡さない」
はっきりと。
一切の揺らぎなく。
「……承知しております」
使者が答える。
だが、その奥にはまだ火がある。
「だから」
レグナは続ける。
「別の形で応えるわ」
一歩、前へ。
「物資の供給」
「復興支援」
「礼拝堂の再建」
淡々と並べる。
「教国が失ったものを、可能な限り補う」
使者の眉がわずかに動く。
「……それは」
「対価よ」
言い切る。
「あなたたちが払った犠牲に対する」
静かに。
しかし重く。
「降臨者は渡さない」
「でも」
視線を逸らさない。
「何も返さないわけではない」
沈黙。
使者は動かない。
そして、静かに言う。
「……信仰は、物では満たされません」
「分かっているわ」
レグナも静かに返す。
「だからこれは、完全な答えじゃない」
「でも、今出せる最善よ」
使者はゆっくりと顔を上げる。
目には、まだ熱がある。
「……受け取りましょう」
短く言う。
だが、続ける。
「ですが」
一歩、踏み出す。
「我々は忘れません」
「降臨者は、本来我々のものであるということを…」
使者は去る。
扉が閉まる。
「……これで、しばらくは持つ」
レグナが言う。
「ですが、完全には収まりませんね」
クロノスが返す。
「いずれ、また来ます」
「ええ」
レグナは空を見上げる。
「その時は、その時よ」
クロノスは一度、息を吐く。
「……陛下は」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……本当に、王らしい判断をされますね」
少しだけ硬い言い回し。
だが、その奥に本音がある。
レグナはわずかに目を細める。
「今さら?」
「いえ……」
ほんの一瞬、視線を逸らす。
「……ちゃんと見たのは、今が初めてかもしれません」
少しだけ砕けた言い方。
無意識に近い。
レグナは小さく笑う。
「失礼ね」
「申し訳ありません」
だが、声は少し柔らかい。
「でも」
レグナは続ける。
「これで終わりじゃない」
「はい」
「教国も、連邦も」
一拍。
「そして――世界も」
「……ええ」
クロノスは頷く。
「まだ、何も終わっていません」
レグナはクロノスを見る。
「だから」
静かに言う。
「隣にいて」
クロノスは、ほんの一瞬だけ間を置く。
そして――
「……はい」
静かに頷く。
だがその直後、
ほんの少しだけ、口調が崩れる。
「……離れるつもりはありませんから」
レグナは、わずかに目を見開き、
そして――
小さく笑った。
王国は、まだ揺れている。
世界もまた、静かに動いている。
その中で。
二人は、同じ場所に立っていた。
今は、確かに。




