第八十一話「変わらないもの」
朝だった。
王城の中庭。
空は、今日も静かだった。
何も飛ばない空。
ただ広がるだけの空。
それでも、人はもう見上げない。
地上で生きることに、慣れ始めていた。
クロノスは一人、立っていた。
特に目的はない。
ただ、時間が空いただけだ。
だが、何もしない時間は久しぶりだった。
「……」
視線を上げる。
空。
何もない。
それが、まだ完全には馴染まない。
「探したわ」
声がする。
振り向く。
レグナだった。
軽装。
だが、周囲には近衛がいない。
「お一人で?」
「ええ。少しだけなら問題ないわ」
そう言って、隣に立つ。
自然な動き。
以前なら、もう少し距離があった。
今は違う。
近い。
だが、それが当たり前になっている。
「何か用事ですか」
「いいえ」
少しだけ間を置く。
「顔を見たかっただけ」
クロノスは一瞬だけ言葉を失う。
だが、すぐに視線を逸らす。
「……そうですか」
短い返答。
それでも、拒絶はない。
それで十分だった。
レグナは少しだけ笑う。
そして、同じように空を見る。
「今日も静かね」
「ええ」
短い会話。
だが、途切れない。
沈黙が続く。
だが、それは気まずさではない。
むしろ、落ち着く。
レグナがぽつりと呟く。
「……変わらないものもあるのね」
「何がですか」
「この時間」
横を見る。
クロノスも同じ方向を見ている。
「忙しくなっても、なくならない」
小さく息を吐く。
「作るものだから、かしら」
クロノスはわずかに口元を緩めた。
「そうかもしれません」
その空気が、続くはずだった。
「陛下!」
近衛が駆け寄ってくる。
空気が変わる。
一瞬で。
「……どうしたの」
声が戻る。
王の声に。
「教国より、正式な使者が到着しております!」
レグナの表情が、わずかに引き締まる。
「内容は?」
「……要求です」
一瞬、言い淀む。
そして、はっきりと言う。
「“降臨者を教国へ引き渡せ”と」
沈黙が落ちた。
王の間。
教国の使者が立っている。
重厚な装束。
深く頭を下げたまま、動かない。
レグナは玉座に座っている。
クロノスはその後ろに立つ。
距離はある。
だが、近い。
精神的には。
「顔を上げなさい」
レグナが言う。
使者がゆっくりと顔を上げる。
その目には、強い意志が宿っていた。
「アストレア王国女王、レグナ陛下」
「我らノクティア教国は、正当な対価を求めに参りました」
真っ直ぐな声。
揺るがない。
「我々は、貴国のために戦いました」
「多大な犠牲を払いながら」
「神のために」
そして、一拍。
「――貴国の降臨者のために」
空気が張り詰める。
「その見返りとして」
使者ははっきりと言った。
「降臨者を、教国へお渡しいただきたい」
言葉に迷いはない。
それが当然だと信じている。
そして、それは間違っていない。
教国は確かに戦った。
王国のために。
神のために。
クロノスのために。
だからこそ――
この要求は、正当だった。
「……」
レグナは、静かにその言葉を受け止める。
否定はしない。
できない。
だが。
ゆっくりと、口を開く。
「断るわ」
一切の迷いなく。
使者の目が、わずかに揺れる。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
声はまだ冷静だ。
だが、その奥に熱がある。
レグナは、玉座から立ち上がる。
一歩、前へ。
「彼は“対価”ではない」
はっきりと言う。
「物でも、象徴でもない」
そして、クロノスの方を一瞬だけ見る。
すぐに視線を戻す。
「一人の人間よ」
使者の表情が、わずかに歪む。
「……我々の犠牲を、無視されると?」
「していない」
即答。
「だからこそ、別の形で応える」
「だが」
声が強くなる。
「彼を差し出すことはしない」
その言葉に、空気が震える。
使者は数秒、沈黙する。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、教国への敵対と受け取られても?」
「構わない」
即答だった。
迷いは、一切ない。
その一言で、すべてが決まる。
使者は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
それ以上は言わない。
だが、その背中には確かな怒りがあった。
そして、去っていく。
扉が閉まる。
静寂。
「……強く出ましたね」
クロノスが言う。
レグナは振り返らない。
「当然よ」
短く言う。
「約束したから」
その言葉に、クロノスは少しだけ目を細める。
「俺は、構いません」
静かに言う。
「教国に行くことも」
「必要なら」
レグナの肩が、わずかに動く。
そして、ゆっくりと振り返る。
「駄目よ」
はっきりと。
「それは、私が決めることじゃない」
一歩、近づく。
「あなたが決めることよ」
まっすぐに見る。
「でも」
少しだけ、柔らかくなる。
「私は、あなたを渡さない」
それが答えだった。
クロノスは、わずかに息を吐く。
「……大丈夫ですか」
小さく問う。
レグナは、ほんの少しだけ笑う。
「ええ」
その表情は、強かった。
王として。
そして――
一人の人間として。
「あなたがいるから」
その言葉は、静かに落ちた。
王国の空は、今日も静かだった。
だが、その下で。
確実に、新たな火種が生まれていた。




