第八十話「道具」
夜だった。
王城の一室。
灯りは最小限に抑えられている。
書類の山。
地図。
報告書。
戦争は終わった。
だが、終わったからこそ、終わらないものがあった。
――責任。
レグナは一人、机に向かっていた。
ペンは止まっている。
書類は開いたまま。
だが、視線はどこにも向いていない。
「……」
思い出す。
あの時のことを。
遺構。
鍵。
神の降臨。
クロノスを――使った。
彼の意思を尊重した。
だが、それでも。
選ばせたのは自分だ。
導いたのも自分だ。
あの選択を、背負わせた。
それが、戦争を終わらせた。
それが、正しかった。
それでも――
「……違う」
小さく、否定する。
正しさと、納得は別だ。
あの時の自分は、王だった。
王として、最適な選択をした。
だが。
“彼”にとって、それは何だったのか。
扉がノックされる。
「陛下。連邦の連絡官が」
「……通して」
静かな声。
扉が開く。
入ってきたのは、整った服装の男。
穏やかな笑み。
「失礼いたします。連邦より参りました、セリオス・ヴァレンでございます」
「用件は」
「単刀直入に申し上げます」
軽く一礼し、顔を上げる。
「クロノス様を、前面に出してはいかがでしょう」
レグナの目が、わずかに動く。
「……どういう意味かしら」
「象徴として、でございます」
柔らかい声。
だが、内容は鋭い。
「神を降ろした英雄。王国の象徴」
「それを外交の場に置くことで、連邦との関係はより強固なものになるでしょう」
合理的。
正しい。
反論の余地がない。
「……」
レグナは何も言わない。
ただ、視線を落とす。
「もちろん、強制ではございません」
セリオスは続ける。
「ですが、最も効率の良い手であることは確かです」
効率。
利益。
国としての最適解。
王ならば、選ぶべき答え。
「……分かったわ」
短く言う。
「検討する」
「ありがとうございます」
深く一礼。
そして、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
残された部屋で、レグナは動かない。
ただ、考えている。
「……効率」
その言葉を、繰り返す。
正しい。
間違いなく。
王としては、最善の一手だ。
だが。
手が止まる。
胸の奥が、わずかに軋む。
思い出す。
あの時。
クロノスが、鍵として立っていた姿。
自分が、彼に選択を迫った瞬間。
――あれがなければ、戦争は終わらなかった。
――だから、正しかった。
それでも。
「……また、同じことをするの?」
小さく、呟く。
答えは出ている。
王ならば。
だが――
「……嫌よ」
はっきりと、言った。
その瞬間だった。
決まったのは。
王としてではなく。
一人の人間としての答えが。
「クロノスを呼んで」
近衛に命じる。
声は静かだが、迷いはない。
しばらくして、扉が開く。
クロノスが入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「ええ」
レグナは机から離れ、向き合う。
距離は、少しだけ近い。
だが、まだ遠い。
「あなたに、頼みがあるわ」
静かに言う。
「連邦との関係強化のために、あなたを前に出す」
一拍。
「象徴として」
言葉にする。
逃げない。
自分で言う。
それが何を意味するか、分かっているから。
クロノスは、少しも動じない。
「了解しました」
即答だった。
迷いも、ためらいもない。
「必要であれば、何でもやります」
当然のように。
それが自分の役割だとでも言うように。
レグナの指先が、わずかに震える。
「……どうして」
小さく、漏れる。
「どうして、そんなに簡単に受け入れるの」
クロノスは少しだけ首を傾ける。
「必要だからです」
それだけ。
「俺は、そのためにいる」
淡々と。
事実だけを述べる。
その言葉が――
レグナの中で、何かを壊した。
「違うでしょ!!」
声が響く。
部屋の空気が震える。
クロノスが、初めて目を見開く。
「あなたは、“道具”じゃない!」
強く、言い切る。
呼吸が乱れる。
感情が抑えきれていない。
「……私は」
少しだけ、声が震える。
「一度、あなたを使った」
目を逸らさない。
逃げない。
「戦争を終わらせるために」
「それが正しいと分かっていても」
拳を握る。
「……納得なんて、できなかった」
静かに、続ける。
「だからもう」
一歩、踏み出す。
「同じことはしたくないの」
まっすぐに見る。
「あなたを、道具として扱う王にはなりたくない」
その言葉は、
王のものではなかった。
一人の人間のものだった。
沈黙。
短い。
だが、重い。
クロノスは、その言葉を受け止める。
そして――
「……なら」
一歩、踏み出す。
距離が、近づく。
「俺は」
視線を外さない。
「あなたに使われるためじゃなく」
はっきりと。
「あなたの隣にいるために、ここにいます」
レグナの呼吸が止まる。
その意味を理解するのに、
一瞬もかからなかった。
選ばれたのは――
“王”ではない。
“自分”だった。
「……それ」
小さく、問いかける。
「後悔しない?」
クロノスは迷わない。
「しません」
即答。
揺るがない。
距離は、あと少し。
触れられる。
だが、触れない。
そのまま、止まる。
けれど。
もう、離れてはいなかった。
その夜。
王と兵ではない関係が、
静かに、確かに――
結ばれた。




