第七十九話「同じ空、異なる立場」
王国へ帰還して、三日が経った。
城は、以前よりも静かだった。
戦争が終わったからではない。
――“空”が変わったからだ。
誰も見上げなくなった空。
飛ぶものがいない空。
ただ広がるだけの空は、どこか重く、息苦しい。
その空の下で、人はようやく地面を見るようになっていた。
復興。
再建。
王国は、止まることなく動き続けている。
クロノスは廊下を歩いていた。
すれ違う兵士たちが、一斉に足を止める。
「クロノス様」
「お疲れ様です、英雄殿」
深く頭を下げられる。
以前にはなかった光景。
違和感は、すでに慣れ始めていた。
だが、消えはしない。
「……やめてくれ」
小さく言う。
だが、誰もやめない。
「いえ、そのようなことは」
「あなたは我々の――」
言葉は続く。
敬意。
崇拝。
称賛。
どれも、間違ってはいない。
だが、どこか違う。
クロノスは軽く息を吐き、その場を離れる。
背後でまた声が上がる。
「さすがは降臨者様だ」
足が、ほんの一瞬だけ止まる。
だが、振り返らない。
そのまま歩き続ける。
王の間の前。
報告のために来た。
だが、扉の前にはすでに人が並んでいる。
政務官。
近衛。
各地からの使者。
すべてが、レグナを求めていた。
「……後にしてください」
中から声がする。
忙しさが滲んでいる。
誰かが扉を開け、短くやり取りをする。
クロノスの順番が来る。
中に入る。
書類の山。
地図。
報告書。
レグナは机に向かい、顔も上げずに言った。
「要件は」
「現状の復興状況についての報告です」
「簡潔に」
短い言葉。
無駄がない。
王としての声だった。
クロノスは淡々と報告する。
レグナは聞いている。
だが、同時に別の書類にも目を通している。
止まれない。
止まることを許されない。
それが今の王だった。
報告が終わる。
一拍。
沈黙。
レグナは顔を上げないまま言った。
「……ありがとう」
それだけ。
いつものような言葉はない。
会談の時のような空気もない。
「以上です」
クロノスは一歩下がる。
「……失礼します、陛下」
言葉に、ほんのわずかな硬さが混じる。
だが、レグナは気づかない。
気づく余裕がない。
「ええ」
それだけだった。
クロノスは扉を閉める。
静かに。
音を立てずに。
廊下に出る。
足が止まる。
何もない空間。
だが、胸の奥に何かが残る。
(……あの夜は)
連邦での夜。
静かな庭。
並んで空を見た時間。
言葉は少なかった。
だが、確かにあった。
距離が。
温度が。
それが今は、ない。
(……当然か)
小さく息を吐く。
王は王。
自分は兵。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう割り切る。
そうするべきだと理解している。
だが――
納得はしていなかった。
「おや」
不意に声がした。
振り返る。
見知らぬ男が立っていた。
整った服装。
連邦の紋章。
穏やかな笑み。
「これはクロノス様。お疲れ様でございます」
丁寧な礼。
自然な動き。
だが――
「……誰だ」
短く問う。
男は軽く目を細める。
「失礼いたしました。連邦より参りました、セリオス・ヴァレンと申します」
滑らかな名乗り。
隙がない。
「連絡官として、しばらく滞在させていただいております」
「……そうか」
クロノスは短く返す。
だが、視線は外さない。
どこか引っかかる。
声か。
間か。
空気か。
分からない。
だが――
(……どこかで)
「どうかされましたか?」
セリオスが微笑む。
崩れない表情。
「いや、」
クロノスは首を振る。
「……何でもない」
「そうですか」
軽く頷く。
「お疲れのご様子でしたので、少々気になりまして」
「問題ない」
「それは何よりでございます」
丁寧な言葉。
だが、どこか軽い。
会話が終わる。
クロノスはその場を離れる。
背後を振り返らない。
その背を見送りながら、
セリオスは小さく息を吐いた。
「……やはり鋭いですね」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
フードは被っていない。
だが、その奥の目は――
別のものだった。
「気配だけで違和感を拾いますか」
口元が、わずかに緩む。
「さすがに完全ではありませんね」
だが、それでいい。
「まだ気づかれては困りますから」
軽く肩を竦める。
そして視線を移す。
王の間の扉。
その向こうにいる存在。
「……少々、距離が開いてきましたね」
静かに観察する。
クロノス。
レグナ。
それぞれの立場。
それぞれの役割。
それが、二人を引き離している。
「自然な流れではありますが」
一拍。
そして、ゆっくりと続ける。
「――このままでは、面白くありませんね」
その声には、わずかな熱があった。
「埋めさせていただきましょうか」
誰にも聞かれない場所で。
誰にも気づかれないように。
静かに、物語を動かす。
「せっかく、ここまで来たのですから」
穏やかな笑み。
だが、その奥は読めない。
「壊されてしまっては、困ります」
そう言って、歩き出す。
音もなく。
気配もなく。
影の中へと溶けていく。
同じ空の下。
だが、二人は違う場所にいた。
同じ時間を生きているはずなのに、
同じ距離には、いない。




