第七十八話「言葉のない距離」
夜だった。
連邦の迎賓館。
整えられた庭は、昼とは違う顔を見せていた。
人工的に整えられた静けさ。
だが、それがかえって落ち着きを与えていた。
クロノスは一人、外に出ていた。
壁にもたれ、空を見る。
――静かな空。
何も飛んでいない。
ただ、広がっているだけの空。
「……慣れないな…」
小さく呟く。
戦場の空とは違う。
あの空には、常に何かがあった。
音も、気配も、命も。
だが今は、何もない。
それが、妙に不自然だった。
「こんなところにいたの」
背後から声がした。
振り返る。
レグナだった。
軽装だが、王としての雰囲気は消えていない。
「休んでおけと言ったはずだけど」
「休んでいます」
「そう見えないわねよ」
少しだけ、口元が緩む。
クロノスは肩を竦めた。
「落ち着かないだけです」
「……そう」
レグナは隣に立つ。
距離は近い。
だが、触れはしない。
それでも、不自然ではなかった。
同じ方向を見ているからか。
同じ空を見ているからか。
しばらく、何も話さない。
風の音だけが通り過ぎる。
それで十分だった。
レグナがぽつりと呟く。
「……静かね」
「ええ」
「こんな空、初めてかもしれない」
「俺もです」
短い返答。
だが、会話は途切れない。
不思議と、続いていく。
「戦わなくていい空」
レグナが言う。
「それを望んだのは、私…」
その声に、わずかな影が落ちる。
クロノスは横目で見る。
だが、何も言わない。
代わりに、空を見る。
「……後悔していますか」
静かな問い。
レグナは少しだけ目を細めた。
「いいえ」
即答だった。
迷いはない。
「でも」
わずかな間。
「全部が正しいとも思っていない」
それが本音だった。
クロノスは小さく頷く。
「そういうものだと思います」
「そういうもの?」
「はい」
視線は空のまま。
「全部を守る方法は、ない」
短く、だが重い言葉。
レグナはそれを聞いて、ふっと息を吐いた。
「……あなた、残酷ね」
「事実です」
「そうね」
否定はしない。
できない。
しばらく沈黙が続く。
だが、それは気まずさではなかった。
むしろ、心地いい。
言葉がなくても成立する時間。
レグナが、ふと視線を落とす。
「……不思議ね」
「何がですか」
「さっきも言ったけど」
少しだけ笑う。
「何も話していないのに、落ち着くの」
クロノスは一瞬だけ考える。
答えを探すように。
だが、すぐにやめた。
「……俺もです」
短い返答。
それで十分だった。
レグナは少しだけ目を見開き、
そして、小さく笑った。
「そう」
その一言に、温度があった。
距離は変わらない。
だが、何かが変わっている。
はっきりとは分からない。
けれど確実に、
前とは違う。
レグナが空を見上げる。
「……戻れば、また忙しくなるわね」
「ええ」
「こういう時間は、なくなるかもしれない」
その言葉に、わずかな引っかかりがあった。
クロノスは答えない。
代わりに、少しだけ視線を動かす。
「……作ればいい」
ぽつりと、言った。
レグナが横を見る。
「時間は、作るものです」
淡々とした口調。
だが、その言葉はまっすぐだった。
レグナは少しだけ驚いたように目を細める。
「……簡単に言うわね」
「簡単ではありません」
「でしょうね」
小さく笑う。
その笑みは、どこか柔らかかった。
「でも」
レグナは少しだけ間を置く。
「悪くない考えだわ」
そう言って、また空を見る。
クロノスも同じ方向を見る。
並んで立つ。
触れない距離。
だが、離れてもいない。
そのまま、時間が過ぎていく。
誰も急がない。
誰も崩さない。
この距離を。
この時間を。
壊したくなかった。
少し離れた廊下の影。
一人の男が、静かにその様子を見ていた。
フードの奥から、視線だけが覗く。
「……順調ですね」
小さく、呟く。
敬語。
だが、そこに感情は薄い。
ただ、観察している。
「距離も悪くありません」
腕を組み、軽く壁に寄りかかる。
「あと一歩、といったところなんですがね」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「まあ、無理に動かす必要はなさそうです」
自然に任せる。
だが――
「邪魔が入らなければ、ですが」
その言葉に、わずかな冷たさが混じる。
誰かを想定している。
連邦か。
教国か。
あるいは、別の何かか。
「そのあたりは、少々調整しておきましょう」
軽く肩を竦める。
「せっかくの流れですから」
一歩、闇へ下がる。
「壊されてしまっては、面白くありません」
最後にもう一度だけ視線を向ける。
並んで空を見る二人。
その姿を、静かに見届ける。
「……さて」
小さく息を吐く。
「次はどう動きますかね」
その声は、楽しげだった。




