第七十七話「隣に立つ理由」
王城の一室。
長机の上に並べられた書簡を、レグナは静かに見下ろしていた。
封はすでに切られている。
内容は、単純だ。
――リュミエル連邦との正式会談の打診。
だが、その一行の裏にある意味は重い。
戦争が消えた今。
次に世界を動かすのは、“言葉”だ。
そして、その中心にいるのは――連邦。
「……来るとは思っていたけど…ね」
小さく呟く。
予想はしていた。
だが、想像以上に早い。
王国が立ち直る前に、主導権を握りに来たのだ。
静かに、しかし確実に。
扉がノックされる。
「陛下。政務官が――」
「通して」
数名の政務官と近衛が入室する。
机の上の書簡を見て、空気が一段重くなる。
「連邦ですか……」
「ええ。正式な会談を望んでいるそうよ」
「……また罠、では?」
即座に出た疑念。
当然の反応だ。
だがレグナは首を横に振る。
「前回も一応は過激派の攻撃ってことになっているし」
「今回は違うと信じたいわね。ただ、何もしなくてもいい状態ではないわ」
「連邦のやり方は好きではないけど…賢い」
言葉の圧。
経済、情報、外交。
戦わずして支配する。
それが連邦だ。
「……こちらとしても、無視はできません」
「ええ。だから応じるわ」
決断は早い。
迷いはない。
問題は一つだけ。
「同行者を、どうなさいますか」
部屋の空気がわずかに張る。
レグナは一度、視線を落とした。
ほんの一瞬。
そして、顔を上げる。
「――クロノスを」
沈黙が落ちた。
「……あの、英雄クロノス隊員を?」
「ええ」
「しかし、外交の場です。軍の――」
「分かっているわ」
言葉を遮る。
強くはない。
だが、揺るがない。
「それでも、彼が必要よ」
理由は語らない。
だが、その一言で十分だった。
誰も、反論できない。
それが“王の選択”だった。
廊下を歩く足音が響く。
呼び出しを受け、クロノスは王の間へ向かっていた。
扉の前で止まり、軽く息を整える。
ノック。
「入って」
短い声。
中へ入る。
レグナは窓際に立っていた。
外の空を見ている。
だが、もうそこにワイバーンはいない。
静かな、空。
「お呼びでしょうか」
「ええ」
振り返る。
その表情は、いつもの“女王”のものだった。
「連邦との会談が決まったわ」
「……今度は大丈夫だといいんですが」
「だから、あなたにも同行してもらう」
一拍。
クロノスはわずかに目を細める。
「理由を伺っても?」
当然の問い。
レグナは、少しだけ視線を逸らした。
だが、すぐに戻す。
「――必要だからよ」
それだけ。
説明としては不十分だ。
だが、クロノスはそれ以上聞かなかった。
「……了解しました」
短く頷く。
それで成立する。
言葉が少なくても。
信頼があるから。
出発は翌日。
大規模な護衛は付けない。
あくまで“対話”の場。
最低限の近衛と、数名の随員のみ。
城門を出る。
石畳を進む馬車。
その中で、レグナとクロノスは向かい合っていた。
沈黙が続く。
だが、重くはない。
しばらくして、レグナが口を開く。
「……こういうの、慣れてないでしょ」
「ええ」
即答。
「戦場の方が分かりやすいです」
「そう」
少しだけ、口元が緩む。
「でも、ここも戦場よ」
「……分かっています」
クロノスの視線が、わずかに鋭くなる。
「相手は剣を抜かないだけで、やっていることは同じですね」
「そうね」
短い共感。
そしてまた、静かな時間が流れる。
外の景色がゆっくりと流れていく。
人の営み。
復興途中の街。
そのすべてを見ながら、レグナはぽつりと呟いた。
「……不思議ね」
「何がですか」
「何も話していないのに、落ち着くの」
クロノスは答えない。
ただ、少しだけ視線を外す。
「……そういうものかもしれません」
曖昧な返答。
だが、それでよかった。
連邦の迎賓館。
整いすぎた庭。
無駄のない建築。
すべてが計算されている。
案内された部屋には、すでに連邦側の代表がいた。
柔らかな笑み。
隙のない立ち振る舞い。
「ようこそ、アストレア王国 女王陛下」
「お招きいただき感謝するわ」
形式的な挨拶。
だが、その裏で視線が交差する。
互いに測っている。
距離。
力量。
そして、意図。
会談が始まる。
内容は穏やかだ。
復興支援。
物資供給。
技術協力。
だが、その一つ一つに条件がつく。
見えない鎖。
連邦は、それを静かに差し出していた。
レグナは受け取らない。
だが、拒絶もしない。
均衡。
ぎりぎりの線を歩く。
「……興味深い提案ですね」
クロノスが口を開いた。
場の空気がわずかに揺れる。
連邦側の視線が集まる。
「ただ、それでは王国が依存する形になります」
静かな指摘。
感情は乗っていない。
事実だけを述べる。
代表の男が、ほんの僅かに目を細めた。
「ほう」
「では、どのような形が望ましいと?」
試すような問い。
クロノスは一瞬も迷わない。
「対等な交換です」
「どちらかが一方的に得る関係は、長く続きません」
沈黙。
そして、ふっと笑みが浮かぶ。
「……なるほど」
「興味深い護衛をお持ちだ」
軽い言葉。
だが、評価は変わった。
ただの兵ではない。
そう認識された。
それで十分だった。
会談は終わる。
表向きは成功。
だが、勝敗はついていない。
外に出る。
夕暮れ。
空は、静かに染まっていた。
「……お疲れ様」
レグナが言う。
「いえ」
「さっきの、助かったわ」
「当然です」
短いやり取り。
だが、そこに迷いはない。
レグナは少しだけ視線を逸らし、また戻す。
「……あなた、ああいう場でも落ち着いてるのね」
「慣れているだけですよ」
あの時と同じ言葉。
だが、少しだけ柔らかい。
レグナは小さく息を吐いた。
「……そう」
そして、ほんの少しだけ笑う。
「頼りになるわ」
その言葉に、クロノスは何も返さなかった。
ただ、隣に立つ。
それでいい。
それが自然だった。
少し離れた場所。
建物の影。
一人の男が壁にもたれかかっていた。
フードを深く被り、表情は見えない。
だが、その視線は――
並んで歩く二人に向けられている。
「……なるほど」
小さく、呟く。
「そういう距離ですか」
観察するような目。
だが、そこに敵意はない。
むしろ――楽しんでいる。
「悪くはありませんね」
くく、と喉の奥で笑う。
「王と英雄、ですか」
わざとらしく言葉にする。
だがすぐに首を振る。
「……いえ、違いますね」
少しだけ、視線を細める。
「ただの女性と、ただの男性ですか」
風が吹く。
フードがわずかに揺れる。
その奥の口元が、ゆっくりと歪む。
「でしたら、もう一押しといったところでしょうか」
軽く肩を竦める。
「邪魔はさせませんよ」
誰にともなく言う。
連邦でもない。
教国でもない。
帝国でもない。
――もっと別の何かに対して。
「せっかく面白くなってきましたからね」
一歩、闇の中へ下がる。
「壊されてしまっては、困ります」
最後にもう一度だけ、二人を見る。
その視線は――
まるで、舞台を見守る観客のようだった。
――その男の名はカインと呼ばれていた。




