第七十二話「レグナ」
夜だった。
王城は、静まり返っている。
昼間の喧騒が嘘のように、音が消えていた。
灯りだけが、廊下に細く伸びている。
クロノスは、一人で歩いていた。
呼び出しを受けた。
女王から。
重い扉の前で、足を止める。
軽く息を吐き。
「……失礼します」
扉を開ける。
そこには——
レグナがいた。
机に向かっている。
書類の山。
ペンを走らせる音だけが、部屋に響く。
クロノスは、一歩進み。
静かに立つ。
報告を待つように。
「……来たわね」
視線は上げないまま、レグナが言う。
「はい」
短く返す。
「復興の進捗、聞かせて」
淡々とした声。
女王としての声だった。
クロノスは、簡潔に答える。
瓦礫の撤去。
負傷者の状況。
兵の再配置。
一つ一つ、正確に。
感情を挟まずに。
「……そう」
レグナが、ようやくペンを止める。
少しだけ、間が空く。
クロノスは、次の指示を待つ。
だが——
言葉が、続かない。
静寂が、伸びる。
違和感。
仕事なら、もう終わっているはずだった。
「……ねえ」
その声は——
さっきまでと、違っていた。
クロノスが、わずかに顔を上げる。
レグナが、こちらを見ていた。
女王ではない目で。
「クロノス」
ただ名を呼ばれる。
「……はい」
少しだけ、間を置いて返す。
「今だけでいいから」
ゆっくりと、言う。
「女王じゃなくて、いい?」
一瞬、空気が止まる。
クロノスは、何も言わない。
ただ、静かに頷いた。
小さく、息を吐く。
肩の力が、抜ける。
ほんの少しだけ。
人間に戻る。
「……ねえ、クロノス」
「これで、よかったのかしら」
視線が、窓へ向く。
動かない空。
あの日、自分が選んだ結果。
「戦争は、終わった」
「でも……」
言葉が、途切れる。
クロノスも、同じように空を見る。
何もない空。
だが、確かに失われたものがある空。
「……守りたかったんですよね」
静かに、言う。
少しだけ、目を細める。
「え?」
「全部です」
即答だった。
「国も」
「人も」
「……未来も」
小さく、笑う。
ほんの少しだけ。
泣きそうな笑い方で。
「……ずるいわね」
「何がですか」
「私が欲しかった答えを」
「当たり前みたいに言うところ」
目が合う。
長く。
静かに。
逸らさない。
「……ありがとう、クロノス」
その言い方は——
女王ではなかった。
少しだけ息を吸う。
そして。
「……レグナ」
呼ぶ。
名前で。
その瞬間。
距離が、変わった。
はっきりと。
もう、戻らない形で。
驚いたように、目を見開く。
そして——
少しだけ、嬉しそうに笑う。
「……ねえ」
静かに、言う。
「これからも」
「隣に、いてくれる?」
迷いは、なかった。
「最初から、そのつもりです」
夜は、深い。
空は、動かない。
だが。
二人の間には、確かに何かが動き始めていた




