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第六十二話「空の異変」

 空は、静かすぎた。


 ヴェントラの翼が風を切る音だけが、やけに大きく耳に残る。いつもなら、もっと別の音が混じるはずだった。遠くを飛ぶ鳥の影。高空を渡る風のうねり。雲の流れる、かすかな擦過音。だが今は、そのどれも薄い。


 まるで、空そのものが息を潜めているようだった。


 俺は、前を見たまま手綱を握っていた。


 その腕の中には、エルンストの亡骸がある。冷たくなった重みが、ずっと腕に残っていた。体力が尽きかけていることは分かっている。だが、それでも手放す気にはなれなかった。


 後方には、王国の近衛兵たちが編隊を保ちながら続いている。


 そして、その中央にレグナがいた。


 白銀の装甲は、血と泥で曇っている。それでもなお、彼女の姿は遠目にもはっきり分かった。守られる王ではなく、戦場を渡ってきた指揮官の顔だった。


 少し離れた位置を、ユークスが飛んでいる。


 視線は何度も俺の腕の中へ向いていた。だが、何も言わない。言えないのだろう。


 ふいに、ヴェントラの羽ばたきが鈍る。


 高度が、わずかに落ちた。


「……ヴェントラ」


 低く呼ぶと、喉の奥で短い鳴き声が返る。疲労だけではない。恐怖の名残が、まだ深く残っていた。ドラゴンを見たあの瞬間から、空はヴェントラにとって“帰る場所”ではなくなっていた。


 それでも、飛んでいる。


 首元を静かに撫でる。


「もう少しだけ頼む」


 返事のように、ヴェントラが短く鼻を鳴らす。


 だが、その飛び方は明らかに不安定だった。


 横からレグナの声が届く。


「一度降りましょう」


 短く頷いた。


 断る理由はなかった。


 眼下には、岩肌の露出した小さな高原が見えた。周囲をまばらな木々と崩れた石壁に囲まれた、風除けになりそうな場所だった。


 近衛兵たちが先に降り、周囲を確認する。


 問題なし、という合図。


 ヴェントラは、ほとんど落ちるように地面へ降り立った。


 着地の瞬間、その巨体が大きく揺れる。クロノスはすぐに飛び降り、首元を支えるように手を回した。ヴェントラの呼吸は荒く、全身が薄く震えていた。


「よくやった」


 囁くように言うと、ヴェントラは目を閉じたまま、ようやく少しだけ体を沈めた。


 地に足をつけた瞬間、全員がほとんど同時に息を吐いた。


 空にいるあいだ張りつめていたものが、少しだけ緩む。


 近衛兵たちは素早く散開し、周囲の見張りにつく。数は多くない。だが、隙も乱れもなかった。王に付き従うためだけに鍛えられた者たちの動きだった。


 俺はレグナから布を受け取り、エルンストの亡骸を包む。


 すると、ユークスが近づいてきた。


 だがまず視線を向けたのは、俺ではなかった。布で覆われた遺体へ、目が吸い寄せられる。


「……そいつを、連れていくのか」


 声は硬い。


 怒りとも、困惑ともつかない響きだった。


 クロノスは、ゆっくりとエルンストの体を地面へ下ろした。乱暴には置かない。岩場の上に布を敷き、その上へ静かに寝かせる。


「連れていく」


 それだけ言った。


 ユークスは、歯を食いしばる。


「ウェナスの親を殺した男だぞ」


 正しい言葉だった。


 クロノスは、否定しない。


「分かってる」


 短い沈黙が落ちる。


 風が吹き、布の端がわずかに揺れた。


「……それでもか」


 ユークスの問いに、目を逸らさなかった。


「それでもだ」


 声は低いが、曖昧さはなかった。


「こいつは鍵だった。死んでも終わらない。だから、俺が背負う」


 ユークスは、すぐには何も言わない。


 その拳だけが、固く握られていた。


 少し離れたところで、レグナがそのやり取りを黙って見ている。


 やがて彼女は、静かに言った。


「……それが、あなたの選択ね」


「はい」


 それで十分だった。


 簡易の地図が、岩の上に広げられた。


 レグナは手袋を外し、指先で空の方角を示す。


「村で聞いた話と、大筋は変わらないわ」


 その言葉に、クロノスとユークスが顔を上げる。


「空飛ぶ遺構は存在する。古代に、神を呼ぶために造られた施設である可能性が高い」


「それも原初の遺構…当時は交信棟とも呼ばれていたそうだけれど」


 彼女はそこで一度言葉を切り、空を見上げた。


「ただし——特徴的なのは、あれが一定の場所に留まらないということよ」


「動くということですね」


 ユークスが問う。


「ええ。記録によれば、空を漂うように移動している。追わなければ辿り着けない」


 村人が言っていたことを思い出す。


 雲の上に浮かぶ島。


 近づいた者は戻らない。


「ドラゴンは、その遺構を守っているんですかね」


 俺の問いに、レグナはゆっくり首を振った。


「守っている、というより……見張っている、の方が近いでしょう」


 その表現が、妙に重く響いた。


「近づく者を選別しているのか、監視しているのか、それとも——神に関わる可能性そのものを睨んでいるのか。そこまでは分からないわ」


 分からない。


 だが、恐らくそれが一番正確だった。


 レグナは、視線を落としてエルンストの亡骸を見る。


「本来なら、鍵は二つとも生きている状態で揃うのが完全形よ」


 風が地図の端を揺らした。


「でも今は違う。不完全な状態で発動させるしかない」


 胸が重くなる。


「完全ではなくても、起動はする」


 レグナはそう言って、わずかに目を細めた。


「ただし、代償は重くなるでしょうね」


 その言葉の意味を、誰も軽く受け取れなかった。


 神を呼ぶ。


 世界の空を神に委ねる。


 そこに“不完全”が混ざる。


 何が起きるのか、誰にも分からない。


 ユークスは少し離れた場所に立ち、剣の柄を強く握っていた。


 表情は沈んでいる。だが、目だけはまだ死んでいなかった。


 戦えなかったこと。


 守れなかったこと。


 ガイアスのこと。


 すべてが残っているのだろう。


 それでも、この場を離れてはいない。


 その横顔を見て、何も言わなかった。


 今、言葉をかけても届かないと分かっていたからだ。


 近衛の一人が、見張りの最中に小さく呟いた。


「……鳥がいません」


 全員が空を見上げる。


 確かに、その通りだった。


 風はある。


 雲も流れている。


 なのに、何も飛んでいない。


 空から、命の気配だけが抜け落ちていた。


 さらに、遠くの雲が不自然に捻じれているのが見える。風向きとは違う方向へ、薄く引き裂かれたような形。


 ドラゴンの影響なのか。


 あるいは、もっと別の何かなのか。


 とにかく、正常な空ではなかった。


 エルンストの布を直そうと手を伸ばした時、レグナが先にその端を押さえた。


 ほんの一瞬。


 それだけだった。


 だが、その動きに迷いはなかった。


 敵であった男の亡骸に触れることを、彼女はためらわなかった。


「丁重に扱いなさい」


 その言葉は、クロノスだけでなく近衛兵たちにも向けられていた。


「この男は、もう“敵兵”ではない。鍵よ」


 王としての言葉だった。


 同時に、今の世界の残酷さを示す言葉でもあった。


 休息は短かった。


 ヴェントラが立ち上がれることを確認すると、レグナは再び手袋をはめた。


「行くわよ」


 迷いのない声だった。


 近衛兵たちが即座に動く。


 俺は、もう一度エルンストを抱え上げる。


 重い。


 だが、その重みは今や自分が持つべきものだった。


 ヴェントラの背に乗る。


 ユークスも、何も言わずに続く。


 再び、翼が広がった。


 空へ戻る。


 恐怖は、消えていない。


 だが、止まる理由にもならなかった。


 しばらく飛んだ後だった。


 雲の裂け目の奥に、あり得ないものが見えた。


 最初は、ただの影だと思った。


 だが、違う。


 それは、空に浮かんでいた。


 島。


 巨大な岩塊と、古代の建造物が一体化したような輪郭が、遥か彼方に浮かんでいる。


 陽光を受けて、その一部が鈍く光った。


 そして、そのさらに上を——


 一筋の巨大な影が、音もなく横切った。


 誰も、言葉を発しなかった。


 必要がなかった。


 次に目指す場所が、そこだと。


 そこに、“待っているもの”がいるのだと。


 全員が、理解していた。

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