第百十七話「静かな場所で」
王都から少し離れた高地。
森に囲まれたその場所は、風が涼しく、夏でも空気が軽かった。
王家の別荘。
戦時には使われることのなかった、静かな場所。
「……こんなところがあったのね」
レグナが、周囲を見渡す。
「はい。長く使われていなかったと侍従から聞いています」
クロノスが答える。
「ちょうどいいわね」
レグナが、小さく息を吐いた。
「やっと、“何も考えない時間”が取れる」
その言葉には、わずかな疲れが滲んでいた。
戦争。
神の降臨。
戦後の混乱。
そして、王としての責務。
すべてを背負ってきた時間だった。
「……お疲れ様」
クロノスが、静かに言う。
レグナは一瞬だけ目を閉じて――
「ありがとう」
そう返した。
日が傾き、空が柔らかい色に染まる。
テラスに並んで座る二人。
遠くには山の稜線。
木々がそっと風に揺られている。
「……不思議ね」
レグナが、ぽつりと呟く。
「何がでしょうか」
「戦争が終わっても、世界はこんなに静かじゃなかったのに」
少しだけ笑う。
「ここだけ、別の世界みたい」
クロノスは、その横顔を見ていた。
王ではない顔。
ただ、一人の女性としての顔。
「……クロノス」
レグナが、こちらを向く。
「はい」
「今は」
一瞬だけ、言葉を選ぶ。
「“女王”じゃなくていいわ」
クロノスの呼吸が、わずかに止まる。
「……では」
少しだけ間を置いて。
「レグナ」
初めて、名前だけで呼んだ気がした。
その響きに、レグナは少しだけ目を細めた。
「ええ、それでいい」
沈黙。
だが、その沈黙は、心地よかった。
風が吹く。
距離が、自然と近づいていく。
「……怖くないの?」
レグナが、小さく問う。
「何が?」
「この先」
一瞬、視線を落とす。
「私といること」
クロノスは、少しだけ考えてから――
「怖くない、とは言えない…」
正直に答える。
「だけど」
一歩、近づく。
「それ以上に、離れたくないと思ってる」
レグナの瞳が、揺れる。
そして。
「……ずるいわね」
小さく笑う。
その距離は、もうほとんどなかった。
手が触れる。
引かない。
そのまま、重なる。
言葉は、もう必要なかった。
夜。
窓の外では、風が静かに木々を揺らしている。
灯りは落ちている。
ただ、月の光だけが、部屋の中に差し込んでいた。
レグナは、クロノスの胸に額を預ける。
呼吸が、ゆっくりと重なる。
「……これで」
小さく呟く。
「戻れなくなったわね」
クロノスは、静かに答える。
「最初から、そのつもり」
レグナが、少しだけ笑った。
二人の間には、確かな“選択”があった。
それは、誰にも強制されない。
ただ、自分たちで選んだものだった。




