第百十六話「風の行き先」
王国へ戻った空は、アルカ・ドラグナとは違っていた。
同じ青でも、どこか重い。
見えない“管理”の気配が、空そのものに染み付いている。
それでも、鳥は飛んでいた。
ただ、どこか低く。
どこか慎重に。
城の回廊は、静かだった。
戦争が終わり、復興が進み、人の気配は戻りつつある。
だが、まだどこかで皆が“様子を見ている”。
そんな空気が残っていた。
「……クロノス」
呼びかけられ、足を止める。
「ウェナスか」
振り向くと、そこには見慣れた姿があった。
「少し、いいかしら」
「……ああ」
二人は並んで歩き出す。
目的地はない。
ただ、話すための時間だった。
しばらく、言葉はなかった。
「……懐かしいわね」
ウェナスが、ふと呟く。
「何がだよ」
「あなたが、竜騎兵団に入るって言った時のこと」
クロノスの表情が、わずかに緩む。
「……ああ」
「私、あの時止めなかったわよね」
「止める理由なかっただろ」
「……あったかもしれないわ」
少しだけ寂しそうに笑う。
「でも、背中を押した」
「そうだな」
「“向いてる”って言った」
「……言ったな」
「だから入った」
あっさりとした言葉。
ウェナスが、立ち止まる。
「……それだけ?」
クロノスも、足を止めた。
「いや」
少しだけ、視線を上げる。
「お前がいたからだ」
風が吹く。
ウェナスは、静かに目を閉じた。
「……知ってたわ」
そして、目を開く。
「分かりやすかったもの」
「だろうな」
苦笑する。
「でも」
ウェナスは、まっすぐに言う。
「私は、ユークスを選んだ」
「……ああ」
短く、受け止める。
「後悔はしてない」
「してるように見えねえよ」
「ええ」
はっきりと頷く。
そして――
「あなたも」
一拍置く。
「選んだのね」
クロノスの表情が、わずかに引き締まる。
ゆっくりと頷く。
それは距離ではなく、“覚悟”。
「レグナ様を」
ウェナスは、静かに微笑んだ。
「いい顔してる」
「そうか?」
「ええ」
はっきりと。
「前よりずっと」
短い沈黙。
だが、もう重さはない。
「……ありがとな」
クロノスが言う。
「何が?」
「全部だ」
短い言葉。
ウェナスは一瞬だけ目を細めて――
「どういたしまして」
そう返した。
二人は、そのまま別れる。
振り返らない。
だが、その背中には、もう何も残っていなかった。
中庭。
レグナが、一人立っていた。
そこへ――
「女王陛下」
ユークスが歩み寄る。
「……ユークス」
「お時間、よろしいでしょうか」
丁寧な言葉。
「ええ、構わないわ」
レグナが頷く。
「……クロノスのことですが」
ユークスが、少しだけ言葉を選ぶ。
「何かあったのかしら」
「いえ」
首を振る。
「むしろ、逆です」
少しだけ、視線を横に向ける。
「……吹っ切れたように見えました」
レグナの目が、わずかに細まる。
「そう」
「はい」
ユークスは、静かに続ける。
「昔のあいつを知ってる身からすると」
一拍。
「やっと前に進んだ、って感じです」
レグナは、空を見上げた。
鳥が、一羽。
低く、慎重に飛んでいる。
「……そうね」
小さく呟く。
「なら」
少しだけ、口元が緩む。
「こちらも、止まってはいられないわね」
風が吹く。
王国の空は、まだ制約に満ちていた。
それでも。
人の心は、もう迷っていなかった。




