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第百十五話「風の中の再会」

 アルカ・ドラグナの夜は、静かだった。


 だがその静けさは、決して“何もない”わけではない。


 波の音が遠くで揺れ、風が建物の隙間をすり抜け、そしてどこかで誰かの笑い声が混じる。


 それは、争いのない場所にだけ許された、柔らかな音だった。


「おい、クロノス!」


 その静けさを破ったのは、聞き慣れた声だった。


「……ガイアス」


 振り向いた瞬間、クロノスの表情がわずかに崩れる。


 次の瞬間には、もう距離はなかった。


「生きてやがったか、この野郎」


「そっちこそ」


 軽く肩をぶつけ合う。


 強くもなく、弱くもない。


 だが、それだけで十分だった。


「いやぁ、噂は聞いてたけどな。まさか本当に神降ろして帰ってくるとは思わなかったぞ」


「……やめてくれ」


 クロノスは苦笑する。


「相変わらず堅ぇな」


 ガイアスが笑う。


 その笑い方は、戦場にいた頃と何も変わっていなかった。


 少し離れた場所では、レグナとイリナが向き合っていた。


 沈黙。


 ほんのわずかだが、確かにそこには“距離”があった。


 王国と、かつて敵対した側。


 そして、今は同じ場所に立つ者同士。


「……あなたは、あの国の」


 レグナが、静かに口を開く。


「……ええ。イリナと申します」


 互いに礼は尽くす。


 だが、それ以上は踏み込まない。


 その空気を、割ったのは――


「おいおい、そんな顔すんなって イリス」


 ガイアスだった。


「ここ、戦場じゃねえぞ?」


 その一言で、張り詰めていたものが、少しだけほどける。


「飯にするか? それとも、先に飲むか?」


 あまりにも自然な誘い。


「……そうね」


 イリスが、小さく息を吐いた。


 木のテーブルを囲み、簡素な食事と酒が並ぶ。


 豪華ではない。


 だが、不思議と心が落ち着く空間だった。


「女王陛下、どうぞ」


 ガイアスが杯を差し出す。


 言葉は丁寧だが、どこかぎこちない敬語。


「……ガイアス」


「はっ」


 反射的に返る返事。


「敬語でなくていいわ」


 一瞬、空気が止まる。


「……いや、それは――」


 ガイアスが頭をかく。


「元王国の兵士だったんでね。どうにも抜けないです…」


 レグナは、小さく笑った。


「無理に変えろとは言わないわ」


 そして――


 ほんのわずか、視線が横に流れる。


 クロノス。


「ただし」


「ここでは、そこまで堅くならなくてもいい」


 クロノスの肩が、わずかに強張る。


「……自分は、職務上――」


 言いかけて、止まる。


 レグナは、何も言わずに見ている。


 命令ではない。


 ただの、言葉。


「……ああ」


 短く答える。


 だが、その声音は、ほんの少しだけ柔らかかった。


 その様子を見て、ガイアスがにやりと笑う。


「……なるほどな」


「何がだよ」


「いや、なんでもねえよ」


 明らかに分かっている顔だった。


「ただ…いい感じじゃないですか」


「やめろって」


 即座に返す。


 だが否定の勢いは、どこか弱い。


 イリナが、くすりと笑った。


 その笑いは、先ほどまでの緊張とは別のものだった。


「そうだ」


 ガイアスが立ち上がる。


「せっかくだ。少し付き合え」


 持ってきたのは、粗削りな弦楽器。


「以前、漁師に教わったやつだ。海の音を真似てんだと」


 軽く弦を弾く。


 低く、揺れる音。


 波のように、ゆっくりと広がる。


「……いい音だな」


 クロノスが言う。


「だろ?」


「ちょっと貸せ」


「おう」


 受け取る。


 弦に触れる。


 音が鳴る。


 ぎこちないが、確かに響く。


「下手くそだな」


「うるせえ」


 即座に返す。


 ガイアスが笑う。


 イリナが、そっと手を差し出した。


「……貸してもらっても?」


 受け取る。


 次の瞬間。


 音が変わった。


 滑らかで、澄んでいて、どこか懐かしい。


 風と、波と、夜が混ざる音。


 誰も、言葉を発さなかった。


 ただ、その音に耳を傾ける。


 レグナは、そっと空を見上げた。


 昼間見た鳥の姿は、今はいない。


 夜の空には、ただ星がある。


 だが――


 この空は、どこまでも広かった。


 そして、その隣には。


 同じ空を見上げる者がいた。

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