第百十四話「自由な空の下で」
アルカ・ドラグナの空は、静かだった。
いや――正確には、あまりにも“穏やかすぎた”。
雲の切れ間を縫うように、小さな鳥たちが風を受けて滑るように飛んでいる。翼を広げ、ただ流れに身を任せるその姿には、どこか力みがない。
かつて空を埋めていたワイバーンの影は、どこにもなかった。
だが――それでも、この空は、息が抜けるほどに“自由”だった。
「……同じ空とは、思えないわね」
視察の最中、レグナがぽつりと呟いた。
彼女の視線の先では、子どもたちが丘を駆け回り、鳥の影を追いかけている。戦争の匂いも、命令の声も、ここにはない。
「ええ……」
隣に立つクロノスも、静かに応じる。
「ここには、“選ばされる空”がありません」
レグナは一瞬だけ、言葉を失った。
選ばされる空。
その言葉の意味を、彼女は誰よりも理解している。
自らの意思で“空を手放す”という選択をした王として。
その後、視察は滞りなく進んだ。
ガイアスが軽く迎えに現れ、以前と変わらぬ調子で言葉を交わし、アルカの民は警戒しつつも、王国の女王を受け入れていた。
だが――
レグナの意識は、どこか別のところにあった。
夕刻。
視察を終えた後、二人は自然と人の気配から離れていた。
海を見下ろす高台。
風が強く、衣の裾が揺れる。
遠くの水平線には、光が静かに落ちていく。
「……ねえ、クロノス」
レグナが、先に口を開いた。
「もし、あなたが……ここにいたら、どうする?」
その問いには、“王”としての響きがなかった。
ただ、一人の人間としての迷いが滲んでいた。
「……分かりません」
クロノスは、正直に答えた。
少しだけ間を置き、そして続ける。
「ですが」
風が、強く吹いた。
「あなたがいる場所を、選びます」
その言葉は、飾り気がなく、しかし迷いもなかった。
レグナの瞳が、わずかに揺れる。
沈黙。
だが、その沈黙は不快なものではなかった。
ただ、何かが決まりかけているような、静かな緊張。
クロノスが、一歩踏み出した。
「お伝えしたいことがあります」
その声音が、わずかに変わる。
「これは、命令でも任務でもありません」
はっきりと、線を引く。
「自分の意思です」
レグナは、何も言わずにその言葉を受け止めた。
理解していた。
この先に続く言葉の重さを。
「自分は――」
一呼吸。
逃げ場を断つように。
「あなたと、結婚を前提にお付き合いしたいと思っています」
真っ直ぐだった。
飾りも、遠回しもない。
ただ、覚悟だけがそこにあった。
レグナは、ゆっくりと目を閉じる。
王としての自分。
背負っているもの。
国。
民。
これまで選んできた全て。
「……本当に、いいの?」
目を開く。
「私は王よ」
それは拒絶ではない。
ただ、確認だった。
「知っています」
クロノスは即答する。
「だからこそ」
少しだけ、声に力が宿る。
「選ばれる側として、ここに来ました」
レグナの呼吸が、止まる。
そして――
「……やめた」
ぽつりと、言った。
「?」
クロノスがわずかに戸惑う。
「全部、後で考えるわ」
レグナは、一歩踏み出した。
「今は――」
その瞳には、王としてではない意志が宿っている。
「私の気持ちで選ぶ」
風が、二人の間を抜けた。
「いいわ」
わずかに、微笑む。
「その申し出、お受けいたします」
静かに、だが確かに。
関係が変わった瞬間だった。
遠くで、鳥が一羽、風に乗って旋回した。
「……この空、好き?」
レグナが、空を見上げながら言う。
「ええ」
クロノスも、同じ空を見る。
「ですが」
一瞬だけ、視線を横に向ける。
「あなたと見る空の方が、好きです」
レグナは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
その空には、何の制約もなかった。
鳥たちは、ただ飛んでいた。
誰にも選ばされることなく。
そして二人もまた、
初めて、自分の意思で選んでいた。




