第百九話「空を守る者」
海は、静かだった。
風も穏やかで、
波も低い。
あの柱の海域から離れた今、
世界は何事もなかったかのように、
穏やかさを取り戻していた。
小さな船の上。
ガイアスは、
空を見ていた。
何もない。
ただの青。
だが、
もう違う。
確かに、
“いる”。
あの上に。
見えなくとも、
感じる。
「……戻るか」
ぽつりと呟く。
イリスは、
その横顔を見ていた。
何も言わない。
ただ、
その表情を、
焼き付けるように。
数日後。
アルカ・ドラグナ。
そこは、
いつもと変わらぬ、
静かな土地だった。
木で組まれた家々。
簡素な畑。
海と共に生きる人々。
戦争から逃れてきた者たちが、
肩を寄せ合いながら、
必死に築いた場所。
強くはない。
豊かでもない。
だが。
“自由”だけはあった。
その空の下へ、
ガイアスとイリスは戻ってきた。
「……おーい!」
誰かが気づく。
声が上がる。
「ガイアスだ!」
人が、
集まってくる。
子どもも、
大人も。
皆、
無事を喜ぶ。
その中で、
誰かが空を見た。
「……あれ」
小さな声。
だが、
すぐに広がる。
全員が、
空を見上げた。
そこに。
“影”があった。
巨大。
あまりにも巨大な影が、
ゆっくりと、
空を横切っていく。
誰も、
声を出さなかった。
いや。
出せなかった。
圧倒的すぎて。
ただ、
見上げることしかできない。
やがて。
その影が、
アルカの上空で、
静止した。
空が、
わずかに歪む。
そして。
“見える”。
ほんの一瞬だけ。
巨大な翼。
空を覆う存在。
ドラゴン。
誰かが、
膝をついた。
続いて、
また一人。
また一人。
やがて、
その場にいたほとんどが、
膝をついていた。
「……すげえ……」
誰かが、
震えながら呟く。
「本物だ……」
歓声ではない。
恐怖でもない。
“畏れ”。
だが。
その中で。
誰かが、
叫んだ。
「守ってくれる……!」
その一言で、
空気が変わった。
恐怖が、
歓喜へと変わる。
「ドラゴンだ……!」
「空を守ってくれるんだ……!」
「もう、攻められる心配もしなくていい……!」
声が、
広がる。
涙を流す者もいた。
笑う者もいた。
抱き合う者もいた。
ここには、
何もなかった。
力も。
武力も。
守る術も。
だが今、
空に、
“守護”が現れた。
それが、
どれほどの意味を持つか。
誰もが、
理解していた。
その視線が、
一斉に、
ガイアスへと向く。
沈黙。
そして、
誰かが言った。
「……お前が、呼んだのか」
ガイアスは、
少しだけ肩をすくめた。
「まあな」
それだけ。
だが。
その一言で、
確信に変わる。
「ガイアス……!」
「やったのか……!」
「すげえ……!」
誰かが、
声を震わせながら言う。
「救世主だ……」
別の誰かが、
続ける。
「ドラゴン騎士……!」
その言葉が、
広がる。
何人もが、
繰り返す。
ガイアスは、
少しだけ、
眉をひそめた。
「……やめろ」
軽く言う。
「そんな大層なもんじゃねえ」
だが。
誰も、
やめなかった。
それほどまでに、
意味があった。
この空に、
“自由”が残ったという事実が。
その少し後ろで。
イリスは、
立ち尽くしていた。
目の前の光景。
空に浮かぶドラゴン。
歓喜する人々。
そして。
その中心にいる、
ガイアス。
胸が、
強く鳴る。
あの海で。
あの絶望の中で。
すべてを失った自分を、
支えてくれた男。
無骨で。
雑で。
だが。
誰よりも、
まっすぐだった。
「……すごい」
小さく呟く。
自分でも気づかないうちに。
ガイアスが、
ふと振り返る。
目が合う。
「なんだよ」
少し照れたように言う。
イリスは、
一歩近づく。
そして、
はっきりと言った。
「あなたは、すごい人です」
真っ直ぐに。
迷いなく。
その目に、
一切の疑いはなかった。
「……は?」
ガイアスが、
少し間の抜けた声を出す。
「何言ってんだ」
笑う。
だが。
イリスは、
笑わなかった。
「私は、全部見ていたわ」
静かに言う。
「あなたが、逃げなかったこと」
「選んだこと」
「守ろうとしたこと」
一歩、
さらに近づく。
「……尊敬します」
その言葉は、
軽くなかった。
心の底から。
ガイアスは、
一瞬だけ言葉を失った。
そして。
頭をかく。
「……やめろって」
視線を逸らす。
だが、
少しだけ。
口元が緩んでいた。
空では、
ドラゴンが、
静かに旋回していた。
何も語らない。
何も命じない。
ただ、
そこにいる。
それだけで。
この場所は、
守られていた。
小さな自由。
だが、
確かな空。
アルカ・ドラグナ。
そこに、
新しい象徴が、
生まれていた。




