第百四話「届かぬ領域」
風が、ない。
帆は垂れ、
船はただ、浮かんでいるだけだった。
波の音すら、
どこか遠く、
現実感が薄い。
「……おかしい」
イリスが呟く。
その声は、
やけに重く、
遅れて届くように感じられた。
「風が……完全に止まってる」
ガイアスは答えない。
ただ、
前方を見据えていた。
やがて。
「……来たな」
低く呟く。
その先。
海面を突き破るように、
無数の柱が立っていた。
一本ではない。
二本でもない。
数えきれないほどの高さが様々な柱が、
空へと突き刺さるように伸びている。
異様だった。
自然ではない。
明らかに、
人が作ったもの。
「……何、これ……」
イリスの声が震える。
その巨大さ。
その密度。
まるで、
空に届こうとした痕跡。
ガイアスが言う。
「登るぞ」
「……は?」
「上だ」
短く。
それだけ。
船を寄せる。
柱の根元には、
古びた足場が残っていた。
錆びつき、
崩れかけている。
イリスが触れる。
「……対空施設……」
思い出すように言う。
「空を飛べなかった時代に」
「ワイバーンに対抗するための……」
その言葉を聞きながら、
ガイアスはすでに登り始めていた。
「ちょっと……!」
イリスも追う。
高い。
果てが見えない。
それでも、
登る。
一歩ずつ。
やがて。
イリスが、
ふと空を見上げる。
「……待って」
足を止める。
「光の球が……いない」
いつもなら、
必ず浮かんでいるはずの存在。
だが。
この空には、
一つもない。
完全な空白。
「……どういうこと……」
ガイアスは、
少しだけ空を見て、
「……なるほどな」
小さく呟いた。
そして。
最後の一段を登る。
頂上へ。
その瞬間。
音が、
消えた。
完全に。
風も、
波も、
何も聞こえない。
「……っ」
イリスが息を呑む。
世界から、
切り離されたような感覚。
そして。
「……やっぱりいたか」
ガイアスが言う。
その視線の先。
少し離れた柱。
その頂上に、
一人の男が立っていた。
機械に覆われた身体。
片腕。
口元を覆うガスマスク。
ヴァルター。
イリスの喉が凍りつく。
ヴァルターが、
ゆっくりと顔を上げる。
そして。
「……来たか」
低く言う。
音はない。
だが、
確かに伝わる。
ガイアスが、
一歩前に出る。
「そっちもな」
距離。
数本の柱。
だが、
遠くはない。
届く。
その距離。
ヴァルターが言う。
「ここは……いい場所だ」
「神の目が届かない」
一拍。
「……竜の領域だ」
その言葉の直後。
ヴァルターが踏み出す。
柱の縁を蹴る。
空中へ。
本来なら、
その瞬間。
光の球が襲うはずだった。
だが。
何も起きない。
ただ、
静寂。
ヴァルターの身体が、
一直線に飛ぶ。
次の柱へ。
ガイアスも動く。
壁を蹴る。
空を“渡る”。
衝突。
刹那。
拳と刃が交差する。
火花。
柱の側面を蹴り、
さらに跳ぶ。
上へ。
横へ。
空中を、
足場のように使いながら、
二人はぶつかる。
「竜は力で従わせるものだ」
ヴァルターの声。
冷たい。
確信に満ちている。
ガイアスは、
柱の壁を蹴りながら返す。
「違うな」
一撃。
刃を弾く。
「ゼルヴァードでも無理だったろ」
その名。
一瞬。
ヴァルターの動きが止まる。
だが、
すぐに踏み込む。
「……だからこそだ!!」
拳が叩き込まれる。
衝撃。
ガイアスが弾かれる。
だが、
空中で体勢を立て直し、
次の柱へ着地。
「祖父は届かなかった!」
ヴァルターが、
さらに跳ぶ。
「ならば俺が届く!!」
連撃。
ガイアスが受ける。
足場が崩れる。
石が海へ落ちる。
だが、
止まらない。
ガイアスが、
低く言う。
「やめとけ」
踏み込み。
「同じことになる」
ヴァルターの目が、
細くなる。
そして。
次の瞬間。
空が、歪む。
圧が落ちる。
何かが、
“上”にいる。
二人の動きが、
同時に止まる。
見上げる。
空。
何も見えない。
だが、
確実に“いる”。
ヴァルターが、
静かに後退する。
「……先に行く」
それだけ言う。
そして。
更に高い柱を蹴り、
上へ。上へ。
消える。
ガイアスは、
追わない。
ただ、
空を見ている。
そして。
小さく、笑った。
「……いいね」
その目は、
完全に“挑戦者”のそれだった。




