第百三話「空に消えた男」
夜だった。
島に、風はほとんどない。
波の音だけが、
遠くで揺れている。
小屋の中。
灯りは、ひとつ。
イリスが、
巻物を広げていた。
古い紙。
擦れた文字。
だが、
読める。
ガイアスは、
壁に寄りかかりながら、
それを見ていた。
「……続き、読む」
イリスが、静かに言う。
ガイアスは、頷く。
イリスは、
ゆっくりと視線を落とす。
そして。
読み上げる。
「……“過去、竜に最も近づいた者がいた”」
空気が、変わる。
ガイアスの目が、
わずかに細くなる。
「……“その者は、空において最強と呼ばれた”」
一拍。
「……“名は――ゼルヴァード・アイゼンヴァルト”」
静寂。
その名が、
小屋の中に落ちる。
重く。
確かに。
ガイアスが、
小さく息を吐く。
「……ああ」
短く。
「聞いたことあるな」
イリスが顔を上げる。
「知ってるの?」
「噂程度だ」
「昔、空で最も強かった男がいたって話」
それだけだった。
だが。
十分だった。
イリスは、再び視線を落とす。
続きを追う。
「……“彼は、竜を屈服させようとした”」
その一文で、
空気が変わる。
ガイアスは、動かない。
ただ、
聞いている。
「……“空を制し、竜を従えれば、神にも届くと考えた”」
イリスの声が、
少しだけ硬くなる。
「……“彼は、力を持っていた”」
「……“誰よりも速く”」
「……“誰よりも強く”」
「……“空を支配するに最も近い存在だった”」
灯りが揺れる。
風はないのに。
ガイアスの影が、
わずかに揺れる。
「……“だが”」
一拍。
「……“竜は応じなかった”」
静寂。
それだけで、
全てが崩れる。
イリスの指が、
わずかに止まる。
それでも、
続きを読む。
「……“彼は、さらに力を求めた”」
「……“空を裂き、竜の領域へ踏み込んだ”」
息が詰まる。
小屋の中の空気が、
重くなる。
「……“だが”」
そして。
「……“名を呼ばれることはなかった”」
沈黙。
完全な、沈黙。
波の音すら、
遠く感じる。
イリスの声が、
わずかに震える。
「……“その後、彼は空で消えた”」
「……“遺体は見つからず”」
「……“ただ、空だけが静かになった”」
最後の一文。
「……“それが、ゼルヴァード・アイゼンヴァルトの最期である”」
読み終える。
音が消える。
完全に。
ガイアスは、
しばらく何も言わなかった。
ただ、
その言葉を噛みしめるように、
静かに立っている。
やがて。
「……なるほどな」
低く、呟く。
イリスが、顔を上げる。
「……怖くないの?」
その問いは、
素直だった。
「これ……」
「明らかに失敗してる」
「しかも……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「世界最強だった人が」
その意味は、
重い。
ガイアスは、
少しだけ考える。
そして。
「やっぱそうなるか、って感じだな」
あっさりと言った。
「……え?」
イリスが、目を見開く。
「力でどうにかしようとしたんだろ」
「そりゃ無理だ」
当然のように言う。
イリスは、
言葉を失う。
「……でも」
「死ぬかもしれないのよ?」
声が、少しだけ強くなる。
「あなたも」
「同じことになるかもしれない」
それは、
恐怖だった。
正しい恐怖。
ガイアスは、
それを否定しない。
ただ。
「死ぬかどうかじゃねえよ」
静かに言う。
一拍。
「どうやって会うかだ」
その言葉は、
重く、
まっすぐだった。
イリスの呼吸が、
わずかに止まる。
「……」
「支配しに行くんじゃねえ」
「会いに行くんだ」
その違いは、
決定的だった。
イリスは、
何も言えない。
ただ、
その言葉を受け止める。
その時。
「……もう一つある」
老人の声がした。
いつの間にか、
入口に立っている。
二人が振り向く。
老人は、
ゆっくりと中に入る。
「その記録の、最後の部分だ」
一枚、
別の板を差し出す。
イリスが受け取る。
そして、
読む。
「……“竜に名を呼ばれし者は、未だ現れず”」
その一文。
静かで。
だが、
圧倒的だった。
誰も、
選ばれていない。
今まで一人も。
イリスが、
ゆっくりと顔を上げる。
ガイアスを見る。
だが。
ガイアスは、
笑っていた。
ほんの少し。
楽しそうに。
「……いいじゃねえか」
低く言う。
「最初の一人になるだけだ」
その言葉は、
軽くもなく、
重くもなく。
ただ、
揺るがなかった。
夜は、
静かに更けていく。
だが。
何かが、
確実に動き始めていた。




