第百二話「歪まなかった記録」
海の上。
風は穏やかだった。
波も静かで、
船はゆっくりと進んでいく。
帆が鳴る音と、
水を切る音だけが、
世界を満たしていた。
ガイアスは、
舵を握っていた。
その隣で、
イリスが地図を広げている。
「この辺りのはず」
指で示す。
「古い島」
「今はほとんど人が住んでないけど……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「昔の記録が残ってる場所」
「へえ」
ガイアスは、軽く返す。
「珍しいのか?」
「……うん」
イリスは、少しだけ頷く。
「普通は、残らない」
「戦争で焼かれるか」
「都合のいいように書き換えられるか」
視線を落とす。
「特に……空のことは」
少しだけ間を置く。
「……これは、元首から聞いたの」
ガイアスが、ちらりと見る。
「元首が?」
「うん」
「“あの島には、歪んでいない記録がある”って」
静かに言う。
「空に興味がなかった国だから」
「誰も書き換えなかったって」
ガイアスは、
少しだけ笑う。
「皮肉だな」
「……うん」
イリスも、
小さく頷く。
やがて。
「……見えた」
小さく、呟く。
水平線の先。
ぽつんと、
島が浮かんでいた。
岩がむき出しの、
荒れた島。
だが、
その奥に。
小さな港が見える。
船を寄せる。
軋む音。
静かに接岸する。
人の気配は、
ほとんどない。
だが。
「……誰かいるな」
ガイアスが言う。
港の端。
網を直している、
一人の老人。
白い髭。
日焼けした肌。
ゆっくりと、
こちらを見る。
「……旅人か」
低い声だった。
「まあ、そんなとこだ」
ガイアスが答える。
老人は、
しばらく二人を見ていた。
値踏みするように。
そして。
「珍しいな」
「こんな島に来る奴は」
そう言って、
網を置いた。
イリスが、一歩前に出る。
「ここに……古い記録があると聞いて」
慎重に言う。
老人の目が、
わずかに細くなる。
「……誰からだ」
一瞬の間。
イリスは、
まっすぐに答える。
「元首です」
空気が変わる。
老人の視線が、
わずかに深くなる。
「……そうか」
小さく呟く。
「なら、話は早い」
ゆっくりと立ち上がる。
「あるにはある」
イリスの目が、
わずかに揺れる。
「本当ですか」
「ただし」
老人が続ける。
「読んで、どうする」
その問いに、
イリスは言葉を詰まらせる。
代わりに。
ガイアスが答えた。
「ドラゴンを探してる」
迷いなく。
まっすぐに。
その言葉に。
老人の手が、止まる。
風が吹く。
しばらくの沈黙。
そして。
「……なるほどな」
小さく、呟く。
「空の連中かと思ったが」
「違うようだ」
イリスが、反応する。
「空の連中……?」
老人は、肩をすくめる。
「昔から来るんだよ」
「空に憧れた連中が」
「ドラゴンを“使おう”としてな」
吐き捨てるように言う。
「……全員、死んだがな」
静かな言葉だった。
だが、
重かった。
ガイアスは、
少しだけ笑う。
「だろうな」
その反応に、
老人がちらりと見る。
「お前は違うのか」
「使う気はねえよ」
即答だった。
「会いに行くだけだ」
その言葉に。
老人の目が、
わずかに変わる。
「……ほう」
興味を持ったように。
「いい答えだ」
ゆっくりと立ち上がる。
「ついてこい」
二人は、
顔を見合わせる。
そして、
後を追う。
島の奥。
岩を削ったような小屋。
その中に、
古びた箱があった。
老人が、
ゆっくりと開ける。
中には、
巻物や板が収められていた。
「……ここはな」
老人が言う。
「海の連中が、昔まとめた記録だ」
「空に興味がなかった連中がな」
一枚、取り出す。
「だから、残った」
そう言って、
イリスに渡す。
イリスは、
慎重にそれを開く。
古い文字。
だが、
読める。
そして。
そこに書かれていた一文を、
声に出す。
「……“竜は力に従わず、意志に応じる”」
空気が、
変わる。
ガイアスの目が、
わずかに細くなる。
さらに、読む。
「……“空を奪われてもなお、空を望む者”」
イリスの声が、
少しだけ震える。
老人が、
静かに言う。
「それが、条件だ」
「昔、ここに来た奴の中で惜しいところまでいった奴がいた」
「一人だけだがな」
一拍。
「竜に近づいた男だ」
ガイアスが、
わずかに前に出る。
「……どうなった」
老人は、
ゆっくりと首を振る。
「だが、竜に名を呼ばれなかった」
その言葉は、
静かだった。
「だから、消えた」
それだけだった。
だが。
十分だった。
イリスが、
息を呑む。
ガイアスは、
何も言わない。
ただ、
その言葉を受け止める。
そして。
静かに、
呟いた。
「……上等だ」
その目に、
恐怖はなかった。
あったのは、
ただ一つ。
揺るがない、意志だった。




