第百一話「海の歌」
海岸沿いの、小さな漁港。
夕暮れだった。
空は赤く、
海はそれを映して揺れている。
港には、
木造の船が並び、
潮の匂いが濃く漂っていた。
「おーい!こっちだ!」
声が飛ぶ。
粗野で、
だがどこか温かい声。
ガイアスとイリスは、
そちらへ向かって歩いた。
焚き火。
その周りに、
数人の漁師たちが集まっていた。
酒瓶が転がり、
魚が焼かれている。
「よく来たな!」
「旅人だってな!」
笑いながら、
手招きされる。
警戒は、ほとんどない。
帝国の旗は、
確かにこの島にもある。
だが。
ここには、
いつもの日常があった。
「座れ座れ!」
ガイアスは、
自然に輪の中に入る。
イリスは少しだけ躊躇したが、
その後を追う。
酒が渡される。
焼いた魚が差し出される。
「ほら、食え!」
「遠慮すんな!」
豪快だった。
イリスは、
少し戸惑いながらも受け取る。
一口。
食べる。
「……おいしい」
思わず、呟く。
「だろう!」
漁師たちが笑う。
その笑いは、
どこか懐かしかった。
しばらくして。
酒が回る。
笑い声が増える。
その中で。
一人の漁師が、
木箱から何かを取り出した。
弦楽器だった。
素朴な作り。
だが、
よく使い込まれている。
「お、来たか」
「やるか!」
誰かが言う。
弦を弾く音が響く。
乾いた、
優しい音。
別の男が、
リズムを刻む。
手拍子。
足踏み。
そして、
歌が始まる。
海の歌だった。
波のように、
ゆっくりと始まり、
やがて大きくなる。
荒れる海。
帰れぬ者。
それでも、
明日も船を出す。
そんな歌。
イリスは、
その歌を静かに聞いていた。
胸の奥が、
少しだけ緩む。
その時。
「お前もやるか?」
漁師の一人がガイアスに話しかける。
「……え?」
「これ」
いつの間にか、
ガイアスは楽器を手にしていた。
漁師の一人が、
笑いながら言う。
「やるよ」
「どうせまだ沢山あるしな」
気軽だった。
ガイアスは、
それを受け取る。
少しだけ、
弦を弾く。
音を確かめる。
そして。
弾き始めた。
ゆっくりと。
丁寧に。
音を重ねていく。
「……」
イリスの目が、
わずかに見開かれる。
意外だった。
もっと、
荒々しいと思っていた。
だが。
その音は、
静かで、
繊細だった。
波のように、
優しく揺れる。
漁師たちが、
顔を見合わせる。
「……いいじゃねえか」
「やるな」
誰かが笑う。
ガイアスは、
少しだけ照れたように、
肩をすくめる。
「教えてもらっただけだ」
隣の漁師が、
すぐに乗る。
「こうだ、こう!」
リズムを叩く。
ガイアスが合わせる。
少しずつ、
音が重なる。
その中で。
ガイアスが、
イリスの方を見る。
「お前もやれよ」
自然な声だった。
「……無理よ」
イリスが、目を逸らす。
だが。
「得意なんだろ」
ガイアスは言う。
「……」
イリスの動きが止まる。
思い出す。
数日前。
宿で、
何気なく話したこと。
楽器の話。
ガイアスは、
覚えていた。
「……覚えてたの」
「まあな」
短く答える。
それだけだった。
だが。
その一言が、
イリスの中で、
何かをほどいた。
少しだけ、
息を吸う。
ゆっくりと、
立ち上がる。
もう一本の楽器を取る。
手に馴染む。
指を置く。
そして。
弾く。
音が、重なる。
ガイアスの音に、
自然に寄り添う。
滑らかで、
正確で、
美しい。
「おお……!」
漁師たちが、
驚く。
「すげえな!」
笑い声が上がる。
音が広がる。
海の歌が、
さらに大きくなる。
ガイアスと、
イリス。
二人の音が、
混ざる。
違うはずなのに、
どこか合っている。
その中で。
イリスは、
気づく。
自分が、
笑っていることに。
自然に。
無理ではなく。
心から。
笑っていた。
夜が深くなる。
歌が続く。
酒が減る。
笑いが増える。
帝国の影は、
確かにある。
だが。
この場所は、
まだ壊れていなかった。
それが、
救いだった。
そして。
翌朝。
海は、
いつも通りに揺れていた。
ガイアスは、
船の前に立つ。
イリスも、隣にいる。
「行くか」
ガイアスが言う。
イリスは、
静かに頷く。
もう迷いはない。
船が、
ゆっくりと動き出す。
港を離れる。
海へ出る。
その先にあるのは、
まだ見ぬ場所。
ドラゴンの手掛かり。
そして。
自分たちの道。
波を切りながら。




