第百話「終わらない海」
広場から、離れていた。
石畳の通り。
人の気配は、もうない。
さっきまでの喧騒が、
嘘のように消えていた。
遠くで、かすかに聞こえる。
足音。
帝国兵の巡回。
「……急ごう」
ガイアスが、低く言う。
イリスは、返事をしない。
ただ、
足を引きずるように歩いていた。
視線は、落ちたまま。
呼吸も、浅い。
路地に入る。
狭く、
暗い。
そこまで来て、
ようやく二人は足を止めた。
壁にもたれかかる。
イリスが、
そのまま崩れるように座り込んだ。
「……終わった」
小さく、
呟く。
「全部……終わった……」
声に、力がない。
ただの事実を、
そのまま口にしたような声。
ガイアスは、
何も言わない。
イリスは、続ける。
「元首も……」
「国も……」
「全部……」
言葉が、途切れる。
息が、震える。
「……私たち……」
「何だったの……?」
顔を上げる。
涙で濡れた目。
「海は……空に抗ってきた……」
「ずっと……」
「支配されないために……」
一歩。
一歩。
積み重ねてきた。
歴史。
「……なのに」
「この結果……?」
笑う。
壊れたように。
「……全部、無意味じゃない」
その言葉に。
ガイアスが、口を開いた。
「無意味じゃねえ」
短く。
だが、
はっきりと。
イリスが、睨む。
「……何が分かるのよ」
怒り。
涙。
混ざった声。
「空の人間に」
「海の何が分かるの」
「…薄々だけど、思ってたの あなたがこちら側の人間じゃないってこと」
ガイアスは、
少しだけ視線を逸らす。
そして。
「分かんねえよ」
あっさりと言った。
一瞬、
イリスが言葉を失う。
「分かんねえ」
「お前らが何を背負ってきたかも」
「何と戦ってきたかも」
「全部は、分かんねえ」
だが。
「でもな」
視線を戻す。
「終わってねえよ」
その言葉は、
強くもなく、
静かだった。
だが、
揺るがない。
「……何がよ」
イリスが、呟く。
「全部終わったじゃない」
「見たでしょ……」
あの光景。
吊るされた、五つ。
象徴の終わり。
ガイアスは、首を振る。
「終わったのは“国”だ」
一拍。
「人じゃねえ」
イリスの目が、
わずかに揺れる。
「お前、生きてるだろ」
言葉が、
突き刺さる。
「……」
「なら終わってねえ」
それだけだった。
だが。
イリスは、
何も言い返せなかった。
呼吸が、
少しずつ戻る。
「……じゃあ」
絞り出すように言う。
「どうすればいいのよ……」
「もう……何もないのに……」
その問いに。
ガイアスは、少しだけ笑った。
ほんのわずか。
「ある」
「まだある」
「……?」
「ドラゴンだ」
その言葉に、
イリスの目が大きくなる。
「……何言って……」
「この海の中に」
「ドラゴンの記録があるって聞いた」
静かに。
だが、
確信を持って言う。
「昔の話だ」
「でもな」
「こういう時代に残るのは、そういうもんだ」
一歩、
前に出る。
「そこに行く」
迷いはない。
イリスは、戸惑う。
「……本気?」
「ドラゴンなんて……」
恐怖が、蘇る。
あの存在。
あれは、
人の手に負えるものじゃない。
だが。
ガイアスは、
即答する。
「本気だ」
一切の迷いなく。
「俺は、あいつに会う」
その目は、
恐怖ではなく。
憧れだった。
イリスは、
その目を見てしまう。
理解できない。
だが、
嘘ではないと分かる。
「……一人で行けばいいじゃない」
小さく言う。
ガイアスは、
少しだけ肩をすくめた。
「道、知らねえ」
間抜けな答えだった。
だが。
イリスは、
一瞬だけ笑ってしまう。
涙のまま。
少しだけ。
「……馬鹿じゃないの」
「かもな」
ガイアスも、少しだけ笑う。
そして。
真顔に戻る。
「でも、行く」
「止まる気はねえ」
その言葉は、
揺るがない。
イリスは、
長く沈黙した。
考える。
何もかも失った今。
一人で、
何ができるのか。
答えは、
出ている。
ゆっくりと、立ち上がる。
「……案内してあげる」
小さく言う。
「詳しい場所は知らないけど」
「手がかりならある」
ガイアスは、
それを聞いて、
少しだけ頷いた。
「十分だ」
そして、ガイアスは、
すぐに動いた。
「行くぞ」
イリスも、
もう迷わない。
二人は、
闇の中へと走り出した。
背後で。
帝国の声が、迫る。
だが。
もう、
振り返らない。
海は終わった。
だが。
二人の道は、
今、始まったばかりだった。




