第98話 初めての一回
光が消えた。
音も、揺れも、崩壊も消えた。
ただ、静寂だけが残った。
俺は膝をついたまま、白い床を見ていた。
さっきまでそこにいた少年の気配は、もうない。
「……終わった、のか」
声が掠れる。
答えたのは白い観測者だった。
「緊急初期化、停止」
「現世界、維持を確認」
「基準点、再構築完了」
その言葉を聞いても、喜びはすぐには来なかった。
助かった。
世界は残った。
でも。
あいつは残らなかった。
「……勝手すぎるだろ」
拳を握る。
始めたのは彼だった。
繰り返したのも彼だった。
許せないことは、いくらでもある。
でも最後に、彼は自分で選んだ。
俺たちの世界を残すことを。
アリアが隣に膝をつく。
「ユウト」
その声で、少しだけ呼吸が戻る。
「……帰りましょう」
俺は頷いた。
⸻
基底層を抜けると、朝の屋上に戻っていた。
街はそこにあった。
電車が走っている。
車が交差点で止まる。
コンビニの前で誰かがあくびをしている。
何も知らない日常。
でも、それでいい。
リゼがその場に座り込んだ。
「……生きてる!」
カイが短く答える。
「当然だ」
「当然じゃなかったでしょ今の!」
白い観測者は空を見上げていた。
「観測群への接続、変化」
「上位存在による強制制御、消失」
カイが目を細める。
「自由になったのか」
「近似」
リゼが笑う。
「また近似って言った」
俺は空を見る。
そこにあった重たい視線は、もうない。
見えるのは、ただの青空だった。
いや――違う。
まだ、微かに線は見える。
でもそれは、誰かに管理された線じゃない。
人が迷い、選び、間違え、また進む線。
「……初めてなんですね」
俺は呟く。
アリアが聞く。
「何が?」
「この世界」
俺は街を見下ろす。
「もう試行じゃない」
「誰かのやり直しでもない」
「初めての一回です」
アリアは少しだけ黙り、それから手を握った。
「なら、大事にしないとね」
「はい」
その温度が、胸の奥に残る。
⸻
夕方。
俺たちは、いつもの屋上にいた。
戦いの報告も、観測者たちの調整も、GEOへの説明も全部後回しにした。
今日は、少しだけ何もしない時間が欲しかった。
リゼはフェンスにもたれながら伸びをする。
「で、これからどうすんの?」
カイは淡々と言う。
「世界は残った。だが問題は山ほどある」
白い観測者が頷く。
「観測群は再編が必要」
「人類側との共存手順も未定」
リゼが顔をしかめる。
「現実的な話ばっか」
俺は少し笑う。
「まあ、これから考えましょう」
「今決めないの?」
白い観測者が問う。
俺は首を振る。
「決めません」
「全部を一気に決めたら、また同じになる」
「その時その時で、話して、迷って、選びます」
白い観測者はしばらく沈黙した。
そして。
「記録更新」
「非効率だが、継続観測に値する」
リゼが笑う。
「最高評価じゃん」
アリアが小さく言う。
「たぶんね」
⸻
夜。
皆が帰ったあと、屋上には俺とアリアだけが残った。
街の灯りが揺れている。
俺はふと聞く。
「……俺、また何か忘れてます?」
アリアは少しだけ考える。
「少しね」
「やっぱり」
「でも、大事なところは残ってる」
「大事なところ?」
アリアは一歩近づく。
距離が近い。
でも、もう驚かない。
「私のこと」
「それは忘れてません」
即答すると、彼女は少しだけ目を逸らした。
「……ならいい」
その言葉が、懐かしい。
どこで何度聞いたのかは曖昧だ。
でも、胸が覚えている。
俺は手を伸ばす。
アリアは迷わず握り返す。
「これから、どうします?」
「決まってるでしょ」
彼女は夜景を見る。
「生きるのよ」
「普通に?」
「普通に」
少し間を置いて、彼女は付け足した。
「たまにダンジョン行って」
「たまに世界救って」
「かなり普通じゃないですね」
「あなた基準なら普通よ」
思わず笑った。
アリアも、ほんの少し笑った。
その顔を見て思う。
記憶が完全じゃなくてもいい。
過去が何度繰り返されていてもいい。
今ここで、彼女の手を握っている。
それだけは、誰にも初期化できない。
「……アリア」
「なに」
「俺、たぶんまた何回も間違えます」
「知ってる」
即答だった。
「でも」
俺は続ける。
「そのたびに、選び直します」
アリアがこちらを見る。
静かな目だった。
「ええ」
そして、少しだけ近づく。
「その時は、私も一緒に選ぶ」
胸の奥が熱くなる。
「はい」
夜風が吹く。
世界はもう、誰かの試行じゃない。
正解も、最適も、保証もない。
でも。
俺たちは歩き出せる。
初めての一回を。
⸻
第98話 完




