第89話 思い出すのは、名前より先に
夜だった。
静かな住宅街。
雨上がりの路地に、街灯の光が滲んでいる。
アリアと二人で、帰り道。
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「……ほんとに送らなくてよかったのに」
彼女が少し前を歩きながら言う。
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「いや、なんか自然に」
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「なにそれ」
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振り向いた横顔が、少しだけ笑っている。
その表情を見るたびに、胸がざわつく。
好きだと分かる。
でも、どんなふうに好きになったのかは、まだ霧の中だった。
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「……見てる」
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「見ますよ」
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「堂々と言うのやめて」
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そんなやり取りが、妙に心地いい。
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そのとき。
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空気が変わった。
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冷たい。
鋭い。
見覚えのある“整った圧”。
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「……来る!」
アリアの声と同時に、空が裂けた。
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黒い観測者。
三体。
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前より小規模。
だが、狙いは明確だった。
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「対象:干渉個体補助因子」
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俺は眉をひそめる。
「補助因子?」
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次の瞬間、理解した。
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三体の視線が、一斉にアリアへ向く。
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「アリア!」
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彼女は即座に剣を抜く。
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ザンッ!!
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一体の攻撃線を切り裂く。
だが、残り二体が左右へ回る。
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「排除開始」
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「っ……!」
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間に合わない。
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俺は駆ける。
でも距離がある。
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その瞬間。
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頭の奥で、何かが弾けた。
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白い廊下。
血の匂い。
泣きそうなアリア。
俺が倒れて、彼女が叫んでいる。
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――また失うのは、嫌だ。
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「触るなァ!!」
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声が、自分でも驚くほど低かった。
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世界が止まる。
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いや。
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俺の周囲だけ、“選択肢”が爆発的に増える。
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走る未来。
跳ぶ未来。
届かない未来。
間に合う未来。
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全部、掴む。
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一歩で距離を消した。
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「……なっ」
黒い観測者が初めて揺れる。
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俺はアリアの前に割り込み、そのまま拳を叩き込む。
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ドンッ!!!!!!
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観測者の輪郭が砕け散る。
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残り二体が後退。
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「危険度更新」
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「感情起因の出力異常」
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「撤退を提案」
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そのまま裂け目へ消えていく。
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静寂。
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雨音だけが戻った。
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「……ユウト」
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振り向くと、アリアが少し息を乱していた。
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「大丈夫ですか」
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「それはこっちの台詞」
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そう言って、俺の胸を軽く叩く。
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「今の、何」
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俺は自分の手を見る。
まだ震えている。
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「……分からないです」
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でも、一つだけ分かる。
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「前にも、あなたが危ない目に遭ったことありますよね」
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アリアが止まる。
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目を見開いている。
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「……覚えてるの?」
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「いや、断片だけです」
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白い廊下。
叫び声。
泣きそうな顔。
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「でも」
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俺は彼女を見る。
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「その時も、同じこと思った」
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「守りたいって」
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沈黙。
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街灯の下で、アリアの目が揺れる。
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「……ばか」
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小さく言って、顔を逸らす。
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「そういうの、急に言わないで」
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「本音なんですけど」
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「余計にだめ」
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でも。
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彼女は俺の袖を掴んだ。
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離れないように。
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そのとき、空気が整う。
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白い観測者が現れる。
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「記録更新」
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「記憶欠損領域、一部自然再接続を確認」
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俺は眉をひそめる。
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「戻るんですか」
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「強い感情刺激は、失われた線を再接続する場合がある」
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リゼなら“エモ仕様”とか言いそうだ。
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「全部戻ります?」
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「不明」
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相変わらず正直だ。
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アリアが白い観測者を見る。
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「で、見てただけ?」
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「介入不要と判断」
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「次それやったら斬る」
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「記録する」
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少しだけ笑いそうになる。
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白い観測者が消えたあと、二人きりの夜道に戻る。
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俺は歩きながら、ふと思う。
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思い出したのは、名前でも日付でもない。
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“守りたい気持ち”だった。
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それが先に戻るなら。
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たぶん、悪くない。
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「……アリア」
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「なに」
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「たぶん俺、思ってた以上にあなた好きです」
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沈黙。
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「……知ってる」
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耳まで赤いまま、彼女は前を向いて言った。
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でも、袖は掴んだままだった。
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第4部。
記憶は、心から先に戻る。




