第88話 思い出せない朝
朝日が眩しかった。
カーテンの隙間から差し込む光で目が覚める。
見慣れた天井――のはずなのに、少しだけ他人の部屋みたいに感じた。
「……あれ」
体を起こす。
頭は痛くない。
傷もない。
でも、妙に空っぽだった。
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ドアが開く。
「起きた?」
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声。
振り向く。
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そこに、アリアがいた。
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自然な動きで部屋に入り、マグカップを置く。
当たり前みたいな距離感。
でも俺の心臓は、初対面みたいに跳ねた。
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「……どうしたの」
彼女が少し眉をひそめる。
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「いえ、その……」
言葉に詰まる。
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綺麗だ、と思った。
すごく近い人なんだろう、とも分かる。
でも。
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“どんな時間を積み重ねてきたのか”が、思い出せない。
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アリアは少しだけ視線を落とし、すぐに笑った。
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「そういう顔すると思った」
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ベッドの端に座る。
近い。
香りがする。
知らないはずなのに、安心する。
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「……俺」
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「覚えてないんでしょ」
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即答だった。
責めるでもなく、静かに。
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俺はうなずく。
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「名前も、ここが自分の部屋ってことも分かります」
「でも……細かいことが、ところどころ抜けてる」
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「ところどころ、ね」
アリアが小さく笑う。
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「かなり抜けてるわよ」
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「そうなんですか?」
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「ええ」
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少しだけ意地悪そうに言って、マグカップを押しつけてきた。
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「飲んで。あなた、朝弱いから」
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「……そうなんですか」
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「そうよ」
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言われるまま口をつける。
ちょうどいい温度。
甘さ控えめ。
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「……好きな味だ」
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アリアがほんの少しだけ目を細めた。
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「覚えてなくても、それは変わらないのね」
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午前。
リビングに行くと、リゼがソファでだらけていた。
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「お、記憶喪失くん起床」
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「言い方」
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自然にツッコんでしまって、自分で少し驚く。
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リゼが笑った。
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「その反応は残ってるか」
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カイは端末を見ながら言う。
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「日常記憶の一部欠損。戦闘技能と基礎人格は維持」
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「便利に診断しないでください」
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「事実だ」
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相変わらずらしい。
それも、なぜか分かる。
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昼。
街へ出た。
確認したいことがあった。
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人の流れ。
雑踏。
信号待ちで苛立つ人。
道を間違えて笑うカップル。
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不完全だ。
でも、生きている。
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「……戻ってる」
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俺が呟くと、隣のアリアがうなずいた。
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「あなたが戻したの」
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「俺が?」
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「ええ」
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その言葉に実感はない。
でも、胸の奥が少し熱くなる。
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商店街で、子どもが転んだ。
泣きそうな顔。
でも、すぐ立ち上がる。
母親が笑いながら手を払う。
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そんな小さな失敗が、なぜか眩しかった。
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「……これでよかったんですね」
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アリアは俺を見た。
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「今さら確認?」
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「実感がなくて」
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「じゃあ、これから作ればいい」
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また、その言葉。
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失っても。
忘れても。
ここからまた増やせばいい。
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夕方。
屋上。
風が気持ちいい。
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空の奥に、気配がある。
観測者たちだ。
敵意はない。
ただ、見ている。
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「……まだいるんですね」
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白い観測者が現れる。
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「継続観測」
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「お前の選択結果を確認中」
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俺は肩をすくめる。
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「参考になります?」
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「非効率だ」
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少し間を置いて。
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「だが、持続性が高い」
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リゼが吹き出す。
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「褒めてんじゃん」
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白い観測者は無視した。
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俺は空を見る。
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「俺、何を失ったんですか」
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静かな問いだった。
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白い観測者は即答しない。
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やがて。
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「詳細列挙は不要と判断」
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「だが、重要な記憶を複数欠損している」
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「戻る可能性は?」
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「不明」
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正直すぎる。
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「……そっか」
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少しだけ、寂しい。
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そのとき。
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手が触れた。
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アリアだった。
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「なくしたものばかり数えない」
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真っ直ぐ前を見たまま言う。
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「残ってるものもある」
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俺はその横顔を見る。
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確かに。
名前は覚えてる。
皆が大事だと分かる。
この世界を守りたいと思える。
そして。
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この手を、離したくない。
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理由は思い出せないのに。
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「……アリア」
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「なに」
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「たぶん俺、前からあなたのこと好きですよね」
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沈黙。
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リゼが遠くで噴き出した。
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カイが咳払いした。
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アリアは耳まで赤くして、数秒黙ったあと。
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「……たぶんじゃない」
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小さく。
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「かなり」
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胸が熱くなる。
知らない記憶なのに、嬉しい。
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「じゃあ」
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俺は少し笑う。
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「今も更新します」
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「……なにそれ」
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でも、手は握り返してくれた。
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夜景が広がる。
車のライトが流れ、誰かの選択がまた増えていく。
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思い出せない朝だった。
でも。
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隣にいる人は、ちゃんと分かった。
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それだけで、今日は十分だった。
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第4部。
失っても、ゼロにはならない。




