第87話 忘れていく前に
夕暮れの空は、不自然に静かだった。
雲は流れている。風もある。
なのに、街全体から“揺らぎ”だけが消えている。
信号待ちで誰もスマホを落とさない。
車は寸分違わず止まり、同時に発進する。
子どもたちは喧嘩もせず、決められた遊び方で笑っている。
完璧だった。
だからこそ、気味が悪い。
⸻
「……始まってる」
俺は屋上から街を見下ろし、そう呟いた。
⸻
未来の線が減っている。
迷いの数だけあった枝分かれが、一本の太い流れへ収束していく。
⸻
アリアが隣に立つ。
「まだ間に合う?」
⸻
「……やるしかないです」
⸻
答えながら、少しだけ喉が渇いた。
怖くないわけがない。
⸻
記憶が消えるかもしれない。
また。
⸻
アリアとの時間も。
皆と積み重ねたことも。
⸻
それでも。
⸻
「行くぞ」
カイの声。
⸻
地下の旧観測施設。
強硬派が都市全体へ干渉するための中枢が、そこにある。
⸻
リゼが笑う。
「暗い施設ってだけで嫌な予感しかしない」
⸻
白い観測者も現れる。
「案内を開始する」
⸻
⸻
施設内部は、異様なほど整っていた。
埃一つない通路。
無人なのに、照明は正確に点灯していく。
⸻
「趣味悪」
リゼが言う。
⸻
「合理的だ」
白い観測者が即答した。
⸻
「会話成立してるの笑う」
⸻
⸻
最深部。
巨大な球体装置が浮かんでいた。
無数の線が街へ伸びている。
未来を束ね、選択肢を圧縮する中枢。
⸻
そして、その前に立つ者。
⸻
黒金の観測者――執行官。
⸻
「到達確認」
⸻
「予測通り」
⸻
俺は前へ出る。
「止めてもらいます」
⸻
執行官は揺れない。
⸻
「人間は迷いにより損耗する」
「ならば、迷いを消す」
⸻
「幸福度は上昇する」
⸻
俺は首を振る。
⸻
「それ、幸福じゃない」
⸻
「誤差だ」
⸻
その一言で、空気が冷えた。
⸻
アリアが剣を抜く。
「話は終わりね」
⸻
戦闘が始まる。
⸻
リゼが横から突っ込み、カイが衝撃波で足場を崩す。
白い観測者たちが執行官の補助線を断つ。
⸻
だが、強い。
⸻
執行官が手を振るだけで、空間が固定される。
リゼの動きが止まり、アリアの斬撃が鈍る。
⸻
「効率的制圧を継続」
⸻
「ユウト!」
アリアの声。
⸻
俺は装置を見る。
⸻
あれを止めるしかない。
⸻
だが、破壊はできない。
圧縮された未来ごと消える。
⸻
「……やります」
⸻
白い観測者が近づく。
⸻
「開始すれば、記憶欠損確率は高い」
⸻
「知ってます」
⸻
「確認する。なお実行するか」
⸻
俺は笑った。
⸻
「確認多いですね」
⸻
そして、アリアを見る。
⸻
彼女は何も言わない。
ただ、震える指で俺の手を握った。
⸻
「……忘れても」
⸻
小さな声。
⸻
「また、思い出させる」
⸻
胸が痛くなる。
⸻
「……はい」
⸻
俺は装置へ手を伸ばした。
⸻
存在干渉――最大出力。
⸻
無数の圧縮された線が、一気に流れ込んでくる。
⸻
選ばれなかった未来。
言えなかった言葉。
行かなかった道。
笑えなかった日。
助けられなかった誰か。
⸻
頭が割れそうになる。
⸻
「ぐっ……!」
⸻
記憶が揺れる。
⸻
小学生のころの景色。
初めてダンジョンに入った日。
アリアと出会った瞬間。
⸻
それらが、薄れていく。
⸻
「やめて!」
アリアの叫び。
⸻
でも止められない。
⸻
俺は一本ずつ、線を解いていく。
圧縮された未来を、世界へ返す。
⸻
街の上空で、枝分かれが再び増えていく。
迷いが戻る。
偶然が戻る。
不完全さが戻る。
⸻
執行官が初めて揺れた。
⸻
「……非合理」
⸻
「そうですよ」
俺は歯を食いしばる。
⸻
「でも、生きてるってそういうことでしょ」
⸻
さらに解放。
⸻
頭の中で何かが千切れる。
⸻
アリアの顔を見る。
知っている。
大切だと分かる。
でも。
⸻
“どんな思い出だったか”が霞む。
⸻
「……っ」
⸻
怖い。
本気で。
⸻
それでも、手は離さない。
⸻
アリアが泣きそうな顔で笑う。
⸻
「ちゃんと見て」
⸻
「今、ここにいるから」
⸻
その言葉が、杭になる。
⸻
今の彼女。
今の温度。
今の手。
⸻
それだけは消えない。
⸻
最後の線を解いた瞬間。
⸻
装置が停止する。
⸻
街へ伸びていた圧縮線が、すべて消えた。
⸻
同時に、執行官の領域が崩れる。
⸻
「……制御喪失」
⸻
アリアが踏み込む。
⸻
ザンッ!!!!!!
⸻
執行官の核が断たれる。
⸻
黒金の輪郭が崩れながら、最後に言う。
⸻
「人間は……なぜ、非効率を選ぶ……」
⸻
俺は息を吐いた。
⸻
「好きだからですよ」
⸻
執行官は消えた。
⸻
静寂。
⸻
リゼがへたり込む。
「終わったぁ……」
⸻
カイは俺を見る。
「……どうだ」
⸻
俺は答えようとして、少し止まった。
⸻
「……えっと」
⸻
皆の名前は分かる。
場所も分かる。
でも。
⸻
昨日何を食べたか思い出せない。
先週の会話も曖昧だ。
⸻
そして。
⸻
アリアを見る。
⸻
好きだと分かる。
でも、どこから好きになったのか――思い出せない。
⸻
彼女は一瞬だけ目を閉じ、すぐ笑った。
⸻
「十分よ」
⸻
そのまま、手を握る。
⸻
「ここからまた増やせばいい」
⸻
胸が熱くなる。
理由は曖昧なのに、確かだった。
⸻
街の外では、誰かが道を間違え、誰かが寄り道し、誰かが告白に失敗している。
不完全な世界が、戻ってきた。
⸻
俺は少し笑う。
⸻
「……悪くないですね」
⸻
第4部。
代償を払っても、守りたいものがある。




