第86話 守るために、切り捨てるもの
朝だった。
昨夜の戦闘の痕跡は、街からほとんど消えていた。
裂けた空間も、崩れた道路も、観測者たちの干渉で修復されている。
人々は何も知らずに出勤し、学校へ向かう。
平和だった。
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だが、俺の中は静かじゃなかった。
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「……眠れてないでしょ」
アリアがコーヒーを置きながら言う。
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「少しだけ」
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嘘だった。
ほとんど眠れていない。
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昨夜、“閉鎖された可能性”に触れた感覚が残っている。
消された未来。
助からなかった命。
選ばれなかった道。
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見えてしまった。
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アリアが隣に座る。
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「また背負い込んでる」
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俺は苦笑する。
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「そう見えます?」
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「ええ」
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短く、確信を持って。
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そのとき。
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空気が整う。
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白い観測者が現れた。
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「緊急報告」
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カイとリゼも同時に顔を上げる。
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「早朝から来るねぇ」
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観測者は無視して続けた。
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「強硬派が大規模儀式を開始」
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「都市一帯の“選択肢圧縮”を確認」
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沈黙。
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俺が聞き返す。
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「……何をする気ですか」
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「この街から“不確定要素”を除去する」
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意味は、すぐ分かった。
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偶然。
迷い。
失敗。
挑戦。
寄り道。
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そういう“揺らぎ”を消す。
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つまり。
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「……人間じゃなくなる」
アリアが低く言う。
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観測者は否定しない。
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カイが端末を叩く。
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「すでに兆候が出てる。交通が異常に円滑、SNS投稿激減、喧嘩ゼロ」
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リゼが顔をしかめる。
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「気持ち悪……」
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俺は空を見る。
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線が減っている。
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未来の枝分かれが、明らかに少ない。
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街が“一本道”になり始めていた。
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「止めます」
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即答だった。
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だが、白い観測者は首を振る。
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「単純破壊は不可」
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「圧縮中枢を壊せば、失われた選択肢ごと消滅する」
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つまり。
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強引に止めれば、二度と戻らない未来が出る。
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「……は?」
リゼが固まる。
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「じゃあどうしろっての」
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観測者は俺を見る。
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「お前なら可能性がある」
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嫌な予感しかしない。
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「圧縮された選択肢を、一つずつ再接続する」
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カイが低く言う。
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「気が遠くなるな」
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「副作用あり」
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観測者が続ける。
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「大量接続時、干渉個体の記憶領域に過負荷」
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沈黙。
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俺は笑ってしまった。
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「つまり?」
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「お前自身の記憶が欠損する可能性が高い」
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空気が止まる。
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アリアが一歩前に出た。
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「却下」
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即答。
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観測者が返す。
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「代替案なし」
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「却下よ」
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声が強い。
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珍しく、怒っていた。
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俺は何も言えない。
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記憶。
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また、か。
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やっと少しずつ戻ってきたもの。
アリアとの時間。
皆との積み重ね。
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それを失うかもしれない。
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リゼが目を逸らす。
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「……きつ」
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カイも黙っている。
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誰も、“やれ”とは言えない。
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俺は空を見る。
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未来の線が減っていく。
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街全体が、静かに決められていく。
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迷わない人々。
失敗しない日常。
だが、笑いも薄い。
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生きているのに、薄い。
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アリアが俺の手首を掴む。
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「考えないで」
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「でも」
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「あなたがやる必要ない」
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その言葉。
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痛いほど優しい。
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俺はゆっくり聞く。
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「……もし、放っておいたら?」
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アリアは答えない。
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代わりに、目を逸らした。
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それが答えだった。
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俺は小さく息を吐く。
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「アリア」
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「嫌」
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即答。
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思わず笑う。
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「まだ何も言ってません」
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「分かるもの」
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少しだけ、沈黙。
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俺は手を握り返した。
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「……全部は失いませんよ」
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「保証あるの?」
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「ないです」
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「最悪」
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リゼが吹き出した。
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空気が少しだけ戻る。
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カイが言う。
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「選ぶのはお前だ」
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「ただし、一人で決めるな」
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その言葉。
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第81話の夜と同じだ。
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俺は頷く。
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「……なら」
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皆を見る。
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「手伝ってください」
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アリアが深く息を吐いた。
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「最初からそのつもり」
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リゼが拳を鳴らす。
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「記憶なくなっても、また教えればいいし」
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カイが短く言う。
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「前提にするな」
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白い観測者が一歩下がる。
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「作戦支援を開始する」
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俺は空を見る。
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減っていく未来の枝。
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守るために、何かを失うかもしれない。
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それでも。
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選ぶのは、今だ。
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アリアが小さく言う。
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「……戻ってきて」
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俺は笑った。
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「努力します」
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その手を、強く握る。
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第4部。
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“代償ある選択”が始まる。




