第62話 忘れたはずの戦いと、身体が覚えているもの
「……近いな」
俺は思わず呟いた。
目の前に広がるのは、黒く歪んだ裂け目――
街の上空にぽっかりと空いた、現実とは明らかに異なる“穴”。
空気が重い。
いや、“重い”という表現じゃ足りない。
もっと直接的に、存在そのものを押し潰すような圧。
「……これがダンジョン?」
口に出しながら、自分でも違和感があった。
知識としては知っている。だが――実感がない。
まるで、誰かの記憶を借りているみたいだ。
「ええ」
隣でアリアが短く答える。
その声は落ち着いている。
だが、その手は――俺の手を、いつもより少しだけ強く握っていた。
「……中に入ると、戻れないかもしれないわ」
ぽつりと、静かに。
「それでも行く?」
試すような問いではない。
確認だ。
俺は少しだけ考えてから、空を見上げる。
歪んだ裂け目の奥。そこには何かが“いる”。
見えているわけじゃない。
でも、確実に――“感じる”。
「……行かないとダメな気がします」
自然に、そう答えていた。
理由は分からない。
でも、放っておけない。
その瞬間、アリアがほんの少しだけ目を細める。
「……そう」
小さく息を吐く。
そして――
「じゃあ、一緒に行く」
迷いなく。
そのまま、一歩踏み出す。
⸻
ダンジョン内部。
視界が切り替わる。
瞬間的な浮遊感。
そして――
「……これは」
思わず言葉を失った。
地面が存在しない。
いや、あるにはあるが、定まっていない。
空間が常に揺れている。
上下の概念すら曖昧で、遠くには折れ曲がった建造物のようなものが浮かんでいる。
「……位相が安定してない」
アリアが呟く。
完全に戦闘モードの声。
「普通のダンジョンじゃないわね」
俺はゆっくりと周囲を見渡す。
そのとき――
「……っ!」
突然、視界がブレた。
何かが来る。
「右!」
思わず叫ぶ。
同時に、自分でも驚く。
なぜ分かった?
だが考える前に――
アリアが動いていた。
ザンッ!!
空間を裂くような一閃。
何もなかった場所に、黒い影が現れ、そして崩れる。
「……今の」
アリアがちらりとこちらを見る。
「見えたの?」
俺は一瞬言葉に詰まる。
「……分からないです。でも」
手を見る。
「来るって、分かった」
感覚。
記憶じゃない。
もっと根源的な――“何か”。
アリアが小さく息を吐く。
「……残ってるのね」
安心したように。
ほんの少しだけ。
⸻
そのとき。
空間の奥が歪む。
「……来る」
今度ははっきりと分かる。
一つじゃない。
複数。
「前方、三体!」
俺が言うと同時に、影が現れる。
人型。
だが、形が安定していない。
まるで“存在が途中”のような。
「……外側の残滓」
アリアが低く呟く。
「完全じゃない。でも――危険よ」
言い終わる前に、影が動く。
速い。
だが――
「見える!」
身体が勝手に動いた。
考えていない。
ただ、“正しい位置”に踏み込む。
「そこ!」
アリアが合わせる。
ザンッ!!
一体撃破。
そのまま流れるように回転し、二体目へ。
ザンッ!!
三体目。
背後。
「後ろ!」
振り向かずに、体を捻る。
その瞬間、アリアが背中合わせになる。
ザンッ!!
完全連携。
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静寂。
三体とも崩れ落ちる。
俺は息を吐く。
「……今の」
自分でも驚いていた。
「……動けてた」
アリアが言う。
「動けてた、じゃない」
一歩近づく。
「“動いてた”」
その言葉。
的確だった。
俺は頷く。
「……考えてないのに、分かるんです」
「どこに動けばいいか」
「どうすればいいか」
まるで――
“何度もやったことがあるみたいに”。
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そのとき。
アリアがそっと手を重ねる。
指が絡む。
「……それでいい」
小さく。
「思い出さなくていい」
その言葉に、少しだけ驚く。
「いいんですか?」
アリアは頷く。
「ええ」
そして、少しだけ視線を逸らしてから――
「……今のあなたで、十分だから」
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その瞬間。
胸の奥が、わずかに熱くなる。
理由は分からない。
でも――
安心する。
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そのとき。
奥から、さらに強い気配。
今までとは違う。
明確な“意思”。
「……また来る」
俺が呟く。
今度は迷いがない。
完全に捉えている。
「……行くわよ」
アリアが言う。
俺は頷く。
「はい」
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手を握る。
強く。
自然に。
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そして。
二人で。
奥へ進む。
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その先。
歪んだ空間の中心。
そこに――
“何か”が立っている。
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人の形。
だが。
中身がない。
空洞。
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「……やっと来た」
声が響く。
直接。
頭に。
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「記憶を捨てた個体」
「それでも辿り着くか」
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俺は眉をひそめる。
「……誰だ」
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それはゆっくりとこちらを見る。
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「お前が壊した“外側”の残滓」
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その言葉。
意味は分からない。
だが――
確実に。
敵。
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「……回収を再開する」
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空間が歪む。
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アリアが一歩前に出る。
だが――
今度は、並ぶ。
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「……行くわよ」
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俺は答える。
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「はい」
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手を握る。
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その瞬間。
また一瞬だけ――
記憶の断片。
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崩壊する世界。
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“それ”と戦う自分。
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そして。
隣にいる。
アリア。
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「……っ!」
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消える。
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だが。
今度は確信する。
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俺は、ここに来たことがある。
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何度も。
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「……大丈夫?」
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アリアの声。
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俺は笑う。
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「はい」
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「たぶん、俺」
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「ちゃんと戦えます」
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その瞬間。
アリアがほんの少しだけ笑う。
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「……知ってる」
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戦いは再び始まる。
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だが今度は――
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“記憶じゃなく、本能で戦う物語”。
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第62話 完




